ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”いまここで、あるがままに”

なんと、三か月以上もブログの更新をしなかった。年が明けてはじめてのブログ作成である。

なぜこんなにも長い間更新しなかったのか、というと、単純に

「書く気がしなかった」からだ。

前回の記事で、愛猫ミミタが失踪した経緯や私の気持ちなどを綴ったが、

コチラ↓

chisuke926.hatenablog.com

思いのほか「ミミタショック」は大きかった。思い出しては悲しみや淋しさに押しつぶされメソメソ泣く日々が延々と続き、3月に入ってようやく、わが家の犬猫の写真を居間で観るために数年前設置したデジタルフォトフレームを”オン”にすることができるようになった。

というのも、行動がのんびりしていたミミタの写真の割合がかなり多くて、とてもじゃないけど泣かずにミミタの姿を直視する自信がなかったからである。

ブログを書くにしても、前回のミミタ失踪の記事がちらついて心を乱されることがわかっていたから、書く気がしなかった、というわけだ。

 

ブログを休んでいた3か月以上もの間、自分のあり方にある変化があったので、今回はそれをテーマにしたい。

それは、なんだか憑き物が落ちたように、色々なこと──例えば、

①何の仕事をやっても長続きせず収入が少ないことからくる「自分はだめだ」という長年のコンプレックスを解消するためにも、なんとかして自立できるくらいの稼ぎを得、なおかつ自分らしい仕事がしたい

②霊的成長に勤しみ、己の波動を上げること

③今、細々やっている派遣の仕事のスキルを上げるための学習の場を立ち上げる

 

いまパパッと思いついたものを上げたが、これらのことに対する、ある意味「執着」がなくなってきて、もうどうでもよくなったのだ。

 

①については、昨年

「これは、自分らしく、なおかつ無理せず楽しく収入が得られ、人のためにもなるスキルかもしれない!」と、ある技術習得のために大金をはたいて研修を受けることにしたが、自宅で自己学習を毎日熱心にやっているうちに酷いぎっくり腰になってしまい、完治に1か月近くかかってしまった。そもそも、二十歳からずっと腰痛持ちなので、腰に負担のくる仕事は無理があったのだ。その上、この技術は両手の五指を自由自在に長時間動かす必要があるのだが、持病の右手母指CM関節症が悪化傾向にあり、日常の動作程度ならごまかしつつ作業できるものの、長時間動かし続けるのはとても無理、ということがだんだんとわかってきた。つまり、(私にしては)かなりの大金をつぎ込んだにもかかわらず、どぶに捨てたも同然?の結果になってしまったのである。

今までの私なら、またしても期待した通りに物事が進まなかったことに大きなショックをうけ、

「ほらね、やっぱりうまくいかないんだよ。引き寄せの法則なんて大嫌い!ふん!」

とふてくされたに違いないが、今回は「ま、いっか」で済んでしまった。

②の「己の波動を上げる」についても、もちろんその気持ちに今も変わりはないんだけれど、「必死さ」がなくなり、波動が下がって落ち込んだり悲しんだり自己否定したりしても、

「なんとかして落ちまくった波動を上げなくては!」

とあがいたり

「こういう時はジタバタするより、ネガティブで真っ暗な自分をまるごと受け入れるのよっ!」

とか、いちいち思考をコントロールしようとしたり、コントロールしないようにしたり、あーだこーだ考えることがなくなった。

 

③についても、もう長いこと、こんなふうになったらいいなあ~✨などと漠然と妄想してはいるが、一向に実現のめどが立っていない。以前は、自分の「思考・言葉・行動」あるいは「あり方」で、望む現実を引き寄せる、創造する、ということがなかなかできない自分に腹を立てたり落ち込んだり、人の成功体験に嫉妬したりしたものだったが、もはやこれもどうでもよくなった。

そう、いろんなことが、どーでもよくなってきたのだ。

これは、努力したり、工夫してこうなったわけでもなく、気づいたら

「・・・あれ?なんか最近、”悲壮感”とか”執着心”とか”期待感”が薄れてきたっぽい?」

って感じなのである。

実はこの境地になりたくて足掻きつづけてきたスピリチュアル道なのだが、ミミタの失踪で、自分の努力や願望なんかではどうにも太刀打ちできない出来事に対し、

「喪失感や悲しみを乗り越える」だとか

「湧きあがる感情を抑え込まず、ただただ受け入れる」だとか

最初の数週間こそ自分なりにやったけれど、何をやっても悲しくて苦しくてなかなか癒えないものだから、そのうちに

「もうお手上げ!降参!放置します!」となった。

湧きあがった感情をいちいち良いだの悪いだの、波動が上がるだの下がるだの、ジャッジをせずに、堪能し、あとは放置。また同じ感情が湧きあがっても、

「もう嫌だ~なんで何度も何度もネガティブなことを再考しちゃうんだろ!」なんて、いちいち思わず、放置。

これをくり返しているうちに、感情を放置するのが一番自然で楽なことが体感できてきて、習慣づいてきたようなのだ。ようするに

「ありのまま、あるがまま」である。

そして、自然のなかに身を置き(広大な800坪?の庭に出るだけ)ぼーっとする、犬猫、植物に触れその瞬間瞬間を感じ入る、などといった行為をしつつ、外側の出来事も内側の状態も、批判・非難せずにいるうちに、

「どうでもいい」「どっちでもいい」すなわち「中庸」の域に近づいたようなのだ。

 

 

ひととして挑戦すべき最大の課題は、「いまここで、あるがままに」ということだ。ものごとをでっちあげないこと!現在(つまりあなたが考えるより先に、前もって〈pre〉送られた〈sent〉時)についての考えをつくりあげるのをやめなさい。ただ、いま、その時に身をまかせなさい。

(中略)

それぞれの瞬間をきよらかに、前もって考えたりせずに迎えれば、あなたは過去の自分を再現するのではなく、自分を創造することができる。

サンマーク出版:「神との対話②」より引用)

 

ありとあらゆる自分の感情を、良いだの悪いだのジャッジせずに、素直にきよらかに感じつくす。抵抗せず、身をまかせる。

やっとそれができるようになってきたのかな。その大元にあるのは、

「自分自身(神)を信頼し、無条件に全面的に愛する」こと。

それができてはじめて、

「すべて完璧」

が腑に落ちるのだろう。

 

こんなことブログに書いて、また以前の自分に戻っちゃう瞬間もあるかもしれない。

でも、それもまた、

「どーでもいい亅

のだ。

 

お読みくださりありがとうございました🥰。

すべてに感謝✨