ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

"いまここで、あるがままに”

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2週間ぶりの更新です!

 

サンマーク出版「神とひとつになること」から引用して綴る、”10の幻想シリーズ”、まだ3つしか記事にしていないんだけど、思ったよりまとめるのが難しくて、早くも途中で終わってしまいそう・・・!

てなわけで、そもそも思いつくまま気の向くままのブログなので、10の幻想シリーズは一旦お休み(永遠にお休みか?!)にして、最近得た気づきを記事にしてみようかと思います!

 

先日、朝、瞑想している時のこと。

 

私は1日2回瞑想するのを習慣にしているのだが、正直、”なんちゃって瞑想”っていうか、自己流の超テキトーな瞑想だ。

もともと、自分は瞑想に対する苦手意識があり、その理由は、雑念が次から次へと、泉どころか吹き上がる間欠泉のように湧きあがっちゃって手におえなくて、一時はそんな自分に嫌気がさして瞑想を全くしなかった時期もあったのだが、まあ最近は雑念や妄想と一緒に瞑想するしかないか、と言った感じで折り合いをつけている。

 

ただ、最近ちょっとコツをつかんだ。

意識を脳でなく、心臓に向けるのだ。思考は頭の中で発生する(ような気がする)し、感情(フィーリング)は心臓で発生する(ような気がする)。意識を脳みそからハートへ持ってくるだけで、なんとなく”ただ感じる”状態に持っていきやすくなる気がするのだ。そうすると、自分の力技で、瞑想をより良い状態に持っていこうとする(コントロールしたい)気が失せ、ただ、あるがままの状態を感じている自分になれるのだ。

今までは、第3の目のあたりに意識を向けることばかりやっていたのだが、それを放棄し、心の臓の感覚に身をゆだねることにしたのだ。そうすると、何とも言葉に形容できない感覚──ふわ~っと温かい愛に包まれて歓喜しているかのようなものがこみあげてきて、ただただ、愛と光と喜びに満たされる。もうこの感覚を味わえるだけで、自分としては瞑想及第点をあげてもいいのではないかと勝手に思っている。

 

そんな折、瞑想中にひらめいた。

私はもう長年、こうやって瞑想をやっているけれど、2022年2月○日の朝8時半の瞑想は、初めてやるんじゃないか!(あたりまえだけど)

そしてこの瞑想が終われば、2022年2月○日朝の瞑想は、もう2度と経験しないのだ!

犬の散歩にしても、食事にしても入浴にしても、猫を抱き上げるにしても、毎度おなじみの行為だとして、過去にくり返した経験をそのままなぞって同じように反応しているけれど、毎回毎回、今日この時間にこの行為をするのは初めてで、終わったら最後、2度とこの日この時間この行為は経験しないのだと、そう思いながら経験を創りあげたら、どうなるだろう?

 

その瞬間瞬間がかけがえのないものになり、もっとじっくりその感覚を味わおう、愛おしもう、心を込めよう、専念しよう、と思えてくるだろう。その状態でする体験から得る感情は、この上なく貴重で、素晴らしいものになるだろう。

 

実際、今までもこういったこと──「明日死ぬと思って行動しろ」とか、「いまを生きる」だとか、それに似たようなことは「神との対話」シリーズのなかにも、あちこちに書かれていることなので、当然、知ってはいた。

 

以下太字:サンマーク出版神との対話②」より引用

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思考は、過去の体験や他人の体験にもとづいている。誰かが歯をぬくときに顔をしかめたのを見たから、自分も歯をぬくとき顔をしかめる。痛くはなくても、顔をしかめる。その反応は現実と何の関係もない。現実だと思いこんでいること、つまりほかのひとの経験や、以前の体験に動かされているだけだ。ひととして挑戦すべき最大の課題は、「いまここで、あるがままに」ということだ。ものごとをでっちあげないこと!現在(つまりあなたが考えるより先に、前もって〈pre〉送られた〈sent〉時)についての考えをつくりあげるのをやめさない。ただ、いま、その時に身をまかせなさい。

いいかね、いまという時は、自分へのプレゼントだ。そこには、壮大な真実の種がひそんでいる。あなたが覚えておきたい真実だ。だが、その時が訪れたとたんに、あなたは考えをつくりあげようとする。その時に身をまかせるのではなくて、外側に立って、判断をくだそうとする。だから、反応する。前にしたとおりに行動する。

(中略)

それぞれの瞬間をきよらかに、前もって考えたりせずに迎えれば、あなたは過去の自分を再現するのではなく、自分を創造することができる。

人生は創造のプロセスだ。ところがあなたは、再現のプロセスのように生きている

 

 

もう何度読んだかわからないこのくだり、知識として頭の中に入ってはいたけれど、わかっているようでわかっていなかった。

自分のあり方・視点を変えれば、まったく同じ体験をしても、そこから受け取る感情・気づきは全然違ったものになる。それを意識的に毎瞬毎瞬するかしないか、ただそれだけのことなのだ。

「そっか、そーゆーことね、なるほど!確かにそうだわ!」みたいな感覚が突然押し寄せて、すごく腑に落ちた。

何だか私の人生って、自分をコントロールしようとして、散々苦労して落ち込んで悩んで迷って・・・のくり返しだったけど、コントロールすることを放棄して、ありのままを見つめて受け入れ、無条件に愛して、感謝して手放す・・・それだけに専念するようになったら、人生がずっと楽になった気がする。

 

コントロールすることと、創造することは似て非なるものだ。以前の私は、自分をコントロールすることで、こうありたい自分、ネガティブでなくポジティブな、闇でなく光を体現する人間になろうともがき苦しんだ。それはつまり、理性、思考によっておのれを操作しようとしていたからなのだ。魂の声=感情が、苦しい、辛い、悲しい、妬ましい、さびしいと訴えているにもかかわらず、そんなあり方は低い波動を放つだけだとし、思考や理性でもって強引に、嬉しい、楽しい、愛おしい、喜ばしい、幸せ、といった状態に自分を”創造”しようと必死になった。もちろん、否定的な感情は吐き出さねば、と、日記に思うつくまま罵詈雑言を好きなだけ書きなぐった。しかし、今思うと、この罵詈雑言はほとんど自分に向けて放たれていて、いかに自分がダメ人間かを、これでもか、これでもかと、徹底的に分析したもので、ここまで自分を苛むなんて相当心が病んでいたとしか思えないのだが、この行為が果たして「否定的な感情を放出し、解放する」ことにつながっていたのか?と思うと、首をかしげるしかない。むしろ、コンプレックスを増強していたと言っても過言ではないだろう。

 

 

このことを覚えておきなさい。魂は創造し、理性は反応する。「この瞬間」の体験とは、あなたが何も意識しないうちに、神から送られてきたものであることを、魂の智恵は知っている。

現在(pre-sent)とは、前もって(pre)送られた(sent)という意味なのだ。あなたが探し求めている瞬間に、それどころか、探し求めようと考える前に、わたしは回答を与えている。一瞬、一瞬はすべて、神の輝かしい贈り物だ。現在はプレゼント(贈り物)なのだよ。

魂は自分を体験的に知りたがる。自分を体験的に知ることを通じて、わたしを知ろうとする。魂はあなたとわたしが一体だということを知っているからだ。

(中略)

魂はあなたの感情に語りかける。だから、自分の感情に耳をすましてごらん。

感情に従うこと、感情を大切にすること。

(中略)

あなたの感情、それはあなたの真実なのだから。

感情に従う人生ではなくて、感情を理性という機会的なふるいにかける人生がいいと思うなら、そう生きなさい。理性による状況分析をもとに、決断しなさい。だが、そんな機械仕掛けの人生に喜びを求めたりしないことだ。まして、ほんとうの自分を賛美できるなんて、思わないことだ。

(中略)

真実を知りなさい。真実はあなたを自由にする。だが、真実を知ったら、理性に振りまわされないことだ。理性は、何が「最善」かおしはかろうとする。それはやめなさい!「正気に戻る」というのは自分のほんとうの感情に戻ることであって、思考に戻ることではない。思考はただの思考にすぎない。理性がつくりあげたものだ。理性が「でっちあげた」ものだよ。だが感情、それはほんものだ。

感情とは魂の言葉だ。そして、魂こそがあなたの真実だ。

 

 

そう、まさに、私は自分の感情を”理性という機械的なふるいにかけ”、”状況分析”し、こうあらねばと思う自分を創造しようとしていたのだ。そして、日記に感情をぶちまけることで、破壊的・否定的な感情を解放したつもりになっていたが、やり方が間違っていたのだ😱!

 

 

感情は否定的でも、破壊的でもない。シンプルな真実にすぎないよ。その真実をどう表現するか、それが問題なのだ。真実を愛で表現すれば、否定的、破壊的な結果になることはほとんどない。

(中略)あなたにできるのは、自分自身の真実を、うまく伝えようとすることだけだ。うまく伝えるというのは、はっきりと、正確に伝えることだけではない。愛情と共感をもって、思いやり深く、勇気をもって、完璧に伝えるということだよ。

半分の真実などということもないし、「残酷な真実」も、「平凡な真実」もありえない。「神に誓って真実のすべてであり、真実だけ」、それが真実だ。「神に誓って」と言ったね。そこで真実は、愛情と共感という神性を帯びる。わたしを引き合いに出せば、わたしは必ず助けの手を差しのべるから。

 

 

日記に書きなぐった内容は、私自身をこてんぱに傷めつけるものだった。そこには自分に対する愛情はひとかけらもなく、共感も思いやりもなかった。自分の感じた否定的な感情に、思考で追い打ちをかけるかのごとくネガティブな装飾を施し、日記に毒づいていたのだから、これが、癒しや解放につながるわけがなかったのだ。

 

何十回も読み込んできた内容が、20年以上もたってやっと呑み込めた気がする。

 

それぞれの瞬間をきよらかに、前もって考えたりせずに迎えれば、あなたは過去の自分を再現するのではなく、自分を創造することができる。

 

自分を毎瞬ごとに創造する、ってこういうことか!

本気でこれをやったら、人生が退屈だなんて口が裂けても言えないっていうか、毎日が新しい驚きと、発見と、喜びに満ちみちてしまうじゃないのさ!😍

と思うに至った、ここ数日の私なのでした。

 

 

お読みくださりありがとうございます☺️

すべてに感謝💕✨