ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

愛猫ミミタの失踪

先週11/12から、福岡に住む姉のところへ遊びに行き、ダンナも合流して姉夫婦と湯布院の温泉で1泊したのちに、熊本や佐賀の巨樹に会いに行きつつ、沖縄では愛でることのできない紅葉を満喫し、17日帰路につく・・・・予定だったが、想定外の出来事が起き、福岡行は取りやめになった。

 

実際、私のなかでは、2020年からこっち、いつなんどき、”緊急放送・EBS・ディスクロージャー”とやらが起こるかわからない、との思いから、つねに、食料や生活必需品、犬猫たちの餌といったものを備蓄し、内地に行く際は、場合によっては飛行機が飛ばないなんてこともありうる・・・と脳内で想定しているので、福岡行に関しても、(本当に行けるかなあ・・・?行きたいけど、情報の開示・暴露とやらもいい加減起きてほしいではあるなあ・・・)などとぼんやり思っていた。夫婦二人とも留守の際に緊急事態が起きて、しばらく帰ってこれなくなったりしたら、猫8匹、犬2匹の生存にかかわるので、ペットシッターさんにくれぐれも万が一の事態(緊急放送なんて言いませんよ、もちろん!)が起きた際は、シッターの延長をお願いしておかなきゃ・・・などと思っていた矢先、事件は起きた。

 

11/8夜半、愛猫のミミタが外出したまま、帰ってこない。ミミタは10歳の雄猫で、下僕であるダンナの手を煩わせることにかけてはダントツナンバーワンの猫である。彼の別名は「おひざクン」と言うほどに人間の膝が大好きで、こちらの都合なぞお構いなしに膝に乗せろと執拗に要求する。なので、ダンナは毎晩、彼を膝に乗せてテーブルに向かって横向きになった不自然な体制で食事をとるはめになり、いつのまにか左手で箸をそこそこ使えるまでになった。そうでもしないと右手に持った箸でおかずを掴むこともままならないからである。

また、水を飲む場所もキッチンの蛇口から出る流水がお決まりになってしまい、要求があればどんなに忙しくても水を出してあげなくてはいけない。雨が降れば水好きのミミタは夜中だろうが何だろうが嬉々として外出し、びしゃびしゃに濡れて帰宅してダンナのもとへ駆けつける。タオルでやさしく拭いてもらうためだ。最近では、ダンナのシャワーを一緒に浴びる、と言って風呂場について来ることも多く、そうなったらダンナは自分の身体を拭くより先にミミタの身体を拭いてあげなくてはならない。

そしてミミタが外出から戻った際には必ずブラッシングをする、というのもいつの間にかお決まりとなり、下僕のダンナは、大変だとかこぼしながらも、自分で自分の首を絞めている節もあって、まんざらではなく、忠実なミミタの下僕としてかいがいしく彼の面倒をみてあげていた。

正直、私は、「自分はここまではしてあげられないよ」という線引きがあり、ミミタにとって私は、「ぼくの要求を完全には叶えてくれないオバちゃんだけど、膝が空いているときは乗ってあげてもいいよ」といったふうであったと思う。

あくまでも、自分は人間に奉仕してあげているんだよ、といった顔つきで膝に乗り、「乗ってあげたよ、つぎは身体をマッサージさせてあげるよ」と、振り返りこちらを見る。こちらの手が止まると、「どうしたの、手が止まっているよ。撫でて撫でて」と言わんばかりに顎を上げてマッサージを要求する。

こちらの気まぐれで抱き上げたり膝に乗せても、彼がいまその気分じゃないと、下ろせと要求し、外に出かけてしまったりする。可愛い顔をしていながら、マイペースで、自分のしたいことは執拗にやろうとし、人間の都合でいくら阻止しようとしても頑として実行する。

しかし、野生の猫としてのたくましさは保護したときから皆無で、人間に世話されなければ生きていけない、慢性鼻炎もち・どんくさい甘えん坊の猫であるがゆえ、鳥やネズミを捕まえてきたこともなく、ダンナと二人で

「ミミは外では一人で生きていけないよね~絶対!」とよく話していたものだ。

 

そのミミタが、帰ってこないのだ。最近は歳も取ったし、外に出ても大概目に付くところにいて、数時間もすれば家に戻ってきていた。なので、私もダンナも気が気ではなく、家の周囲を歩き回っては名前を呼びながらやぶの中や木の根元など、捜索してまわった。しかし、ミミタの姿はどこにもなく、まさに忽然と消えてしまったかのようだ。

今までも、外出したまま帰ってこなかった子たちがいる。

ミケという雌猫は、いまの家に引っ越した晩から行方不明になり、とうとう帰ってこなかった。

詳細はこちら↓ (以前つづっていたブログ記事です)

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この時は1か月以上、非常につらかった。激しい悲しみ・絶望と、奇跡を期待する、わずかな希望が日々交錯して、精神的にかなり苦しんだ。結局最終的には、生きて戻ってくることを諦めたのだが、この時はこちらのミスで、引っ越しがどれほど猫に不安や恐怖を与えるのか、という配慮の欠けた対応をしてしまったことが最たる原因であり、見知らぬ土地をさまよって迷子になったらしい、ということは、以前アニマルリーディングをしてくださった方から教えてもらった。なので、つじつまが合う、というか納得がいった。

チャメとモッチという猫も、家出したままとうとう帰ってこなかった。原因は、後から飼いはじめた新参者との確執。この2匹にも申し訳ないことをしてしまったが、理由がはっきりしていることもあったし、面倒を見てくれる別宅があったかも?しれない節もあり、どこかで幸せにしていてくれたらなあ・・・と祈りつつ、時折喪失感に苛まれながらもなんとか乗り切った。

 

しかし、今回のミミタの失踪は、青天の霹靂とも言える全くの想定外の出来事で、私もダンナも久々の温泉旅行に行くるんるん気分はぶっとんでしまい、心ここにあらずの虚無感で日常生活に支障をきたしてしまった。私も数日間は、あまりの深い悲しみで喉に大きな塊がつかえ、食事がのどを通らず、声を上げて号泣した。

 

今こうしてようやくブログを書き、少し気持ちの整理をつけようかな、という気になったのでこうしてキーボードを打っている。

スピリチュアルなことを長年探求してきたので、自分の感情にどう折り合いをつけて、この悲しみ・苦しみを乗り切るか、その術はよ~くわかっている。失踪ではないが、チースケという猫を事故で亡くして以来、ゴロキチ、マロン(犬)、ポンタ、ココと、何匹も見送った経験のおかげで、ペットロスとどう向き合うか、人生で起こることすべては完璧であり、奇跡であり、「死」というものは存在せず、単なる

物質的な生命と霊的な生命のあいだを行ったり来たりするために、あなたという存在の振動率、周波数を大きく変えるエネルギーの変換だ。

(引用元:サンマーク出版「神へ帰る」)

・・・ということらしい、と熟知している。しかも、

 

あなたがたが「死」と呼ぶことはすばらしい。だから誰かが死んでも悲嘆にくれる必要はないし、自分の死を悲しみや不安のうちに迎えることもない。

生命/人生を歓迎するように、死を歓迎しなさい。「死」とはべつのかたちの生命なのだから。

ひとの死を穏やかな祝意と深い幸福をもって歓迎しなさい。死はすばらしい喜びだから。

死を──自分の死も他人の死も──安らかに経験するには、つぎのことを知っていればいい。死ぬひとはつねに自分でそうしている、ということだ。

(中略)

あなたの死を引き起こすのは、あなた自身だ。

いつ、どこで、どんなふうに死ぬのであっても、これが真実だ。

(引用元:同上)

 

・・・私たちが「死」と呼ぶ体験をコーディネイトし引き起こすのは、まぎれもない本人である、ということも知り、どんなにか救われた気持ちになったことか。

 

この、サンマーク出版神との対話シリーズ「神へ帰る」は、まるまる1冊「死」について述べられている本で、私は、この本を繰り返し読んだおかげで自分が死ぬことはまったく恐れていないどころか楽しみだし、可愛がっていたペットの死にも、嫌というほど喪失感・悲しみを存分に味わい尽くしたのちに、重苦しい悲壮感を温かい感謝の気持ちに変え、現実を受け入れることができるようになった。

(この本の内容をブログでシリーズ化しています。関心のある方は読んでみて下さい)

 

chisuke926.hatenablog.com

 

なので、愛猫ココが急逝した際も、すぐにブログで取り上げることができるほど、悲しみをいつまでも引きずらずに(毎日涙ぐんではいたけれど)、日常生活に戻ることができた。

(お時間・ご興味のある方はお読みください)

chisuke926.hatenablog.com

 

しかし、”行方不明”といのは、生きているのか、死んでいるのかはっきりしない分、気持ちの整理がなかなかつけられない。実際、上記のミケの失踪の際は、私はいつどうやって気持ちの整理をつけたのか。

詳しくは過去のブログに綴ってあった。

(お時間のある方は、良かったら読んでくださいね)

chisuke926.cocolog-nifty.com

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ミミタが突然いなくなって10日目、ある意味手がかかって存在感が半端ない猫だった故に、私もダンナも喪失感が完全になくなるにはまだしばらくの時間が必要ではあるだろうが、ミミタが自分の意志で出ていき、もしハブに急所をかまれたとか、急に具合が悪くなった、といった理由から命を落としたのだとしても、ミミタの魂的には

「この世でやるべきことはやりつくしたから、もうあっちへ移行しよう」と決めて、逝ったのだと思うし、つねに「猫の自由意思を尊重する」ことを念頭に、飼い主的にどんなに心配でも外へ自由に出入りできる猫専用扉を設置し、安心して眠り、食べることのできる環境を提供したうえで、同居生活を送らせていただいている私たち夫婦としては、今後も何が起きたとしても、その信念は揺らぐことはない。

 

ココ急逝の過去記事でも掲載しているが、この一文が何よりもいまの私には必要なメッセージだと思うので再度紹介する。

 

人生のどんなときでも、その瞬間を意識したとたんに、死と喪失について考えずにはいられないはずだ。そうでなければ、まったく人生がわかっていないことになる。半分を知っているにすぎない。

どの瞬間も始まったとたんに終わる。それがわからないと、その瞬間のどこがこのうえなく大切なのかわからず、平凡なひとときにしか思えないだろう。

どんな交流も、「はじまりが始まった」瞬間に「終わりが始まる」。そのことをよく考え、深く理解してはじめて、すべての瞬間の、そして人生そのものの貴重さが充分にわかるだろう。

死を理解しなければ生命は与えられない。理解するだけではいけない。生を愛するように、死を愛する必要がある。

これが最後だと思えば、誰かと一緒のひとときが輝くだろう。どの瞬間も、経験するのはこれが最後だと思えば、はかり知れないほど重いものになるだろう。死から目をそむけているから、自分自身の生命を考えなくなるのだよ。

(引用元:サンマーク出版神との対話③」)

 

ミミタが奇跡的に帰ってくるか、帰ってこないかはともかく、ミミタと過ごした10年間、私もダンナも彼のマイペースぶりに振り回されっぱなしだったけれど、この上なく幸せだった。もう、モフモフの身体を抱きかかえたり、膝に乗せてナデナデすることが叶わないのかと思うと涙が滝のようにあふれてしまうが、それはこちらの一方的な感傷に過ぎないのであり、ミミタは今生で膝に乗りたいだけ乗りまくり、甘えたいだけ甘えて好き勝手に彼らしく生き、充分満足して逝ったのかもしれない。

 

今までありがとう、ミミタ。

でも、もしどこかで生きていて、その気が少しでもあったら戻ってきてね。

私の独りよがりな願いではなく、君の望みがかなうことを真に祈っています。

 

最後に、ミミタの過去記事も見つけたので、良かったら読んでみて下さい。

chisuke926.cocolog-nifty.com

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お読みくださりありがとうございます🥰

すべてに感謝✨