ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”愛には何も必要ない。それが愛だ”

 


※以下太字:サンマーク出版神との対話3」より引用

 

愛には何も必要ない。それが愛だ。

誰かへの愛が要求をともなうなら、それは愛ではなくまがいものだよ。

 

 

わが子が、伴侶が、期待どおりにふるまってくれない。

もっと素直であってほしい、もっと賢くあってほしい、もっと優しくしてほしい、もっと大事にしてほしい、もっともっと・・・・。要求がかなえられないと、愛情が減っていくのであれば、それはほんとうの愛ではなく、まがいものである、と神様は言うのだ。

私は、20年近く前、神との対話シリーズを熟読したのちに、我が子をもっと愛そうとして、要求することをやめ、無制限・無条件の愛そのものの母親になろうとして、いとも簡単に失敗した。

 

 

愛とは、無制限なものだ。はじまりもなければ終わりもない。以前も以後もない。だから、愛はつねにある。つねに現実だ。

(中略)

愛が無制限で、そして常にあるなら、愛は・・・・自由だ。愛は完璧な自由なのだよ。ひとはつねに愛し、愛されたいと願っている。そうだろう。つねに愛が無制限であってほしいと願っている。そして、それを自由に表現したいと願っている。あなたがたは愛の経験のすべてで、自由と無制限と永遠を求める。いつも実現するとは限らないが、求めてはいる。愛とはそういうもので、ひとは心の奥底ではそれを知っているから求める。なぜ知っているか。あなたがたは愛であり、愛の表現を通して、ほんとうの自分を知り、経験するからだよ。

あなたがたは、生を表現する生であり、愛を表現する愛であり、神を表現する神だ。

だから、これはみんな同義語だよ。同じものだと考えればいい。

神──生命──愛──無制限──永遠──自由

このどれにもあたらないものは、ほかのどれでもない。

これがあなたがただ。「遅かれ早かれ」、そういうものとして自分を経験したいと思うようになる。

 

 

私が神で、無制限の愛であるならば、なぜわが子を愛することがこんなに難しいのか?なぜ、子育てにイライラし、すぐ怒りがこみ上げ、うまく愛せない自分に腹を立て、絶望し、母親失格の烙印を自らに押し、こんなにも苦しまねばならないのだろうか。

 

子どもたちが幼かった頃は、ずっとこんな調子で、いまでも当時のことを思うと子供たちに対する懺悔の気持ちでいっぱいになり、涙があふれてしまう。

 

思い通りの人生が歩めずに、いま、苦しんでいる人、悲しんでいる人に、楽になってほしい。当時の私のように、辛い、重苦しい日々を悶々と過ごすのではなく、軽やかに、穏やかに、1日1日に感謝できる毎日を送ってほしい。

とにかく、何をいちばんにするのが、人生を楽に生きる術なのか。

 

自分を、全面的に愛すること

 

これしかない。ていうか、すべてここから始まる。

私は、自分に厳しく、いつも、女性として、妻として、母として、なにより人として、及第点に届かない自分を愛していなかった。自己肯定感が低く、理想の自分を思い描いては、それに向かって必死に努力し、うまくいかず自爆する。そのくり返しだった。けれど、いまは違う。自分が大好きになった。ここまでくるのに、本当に長く苦しい道のりだったが、このプロセスがあったからこそ、声を大にして言えるのだ。

自分を全面的に愛していないと、何も、誰も、本当に愛することはできない。条件付きで愛するのが関の山だ。

では自分を全面的に愛するには、どうしたらいいのか。

それは、

 

完全に自分に正直になること

 

これ以外にない。自分のどす黒い、見たくない部分も、全部さらけ出し、世間の常識など無視して、やりたいことをじゃんじゃんやるのだ。

人からどう思われるか、どう見られるかを気にして、自分を押し殺し、我慢していることは、自分を愛していないことに他ならない。

以前の私は、「こう在りたい自分」に自分を近づけようと一生懸命だったが、そんなことはしなくていい、つか、してはいけない。

どんなに破天荒で突拍子もない、世間的に無責任な行為だとしても、それがしたいならする。自分の欲望を満たすことをせず、高尚な人間になろうなどと考えてはいけないのだ。この世に生まれ出た目的のひとつは、低次の欲望から高次の欲望まで、体験し尽くすことにあるのであって、低次の欲望が満たされていないのに、良い人になろうとして無理やり自分を騙すことは、自分を律するのではなく抑圧してしまうことになる。

 

私たちは、みな、生まれてからずっと、親から、学校から、世間から、メディアから洗脳されてきた。「こうあるべき」人としての姿を決めつけられ、それに向かって努力することが当然であり、できない場合は、社会的落伍者とみなされる世界。そんな世界に生まれることを望んだのは、信じがたいことに自分自身であり、その目的も、そんな不自由で制限だらけの狂った世の中でしか経験できないことを経験しまくり、それによって気づきを得、ほんとうの自分になっていく為なのだ。

けれど、こんな世の中で生きていくことに、疲れ果て、うんざりしてしまうこともあるだろう。それでいいのだ。頑張らなくていい、この世にこうして存在しているだけで、もう十分なのだ。ゆっくり休んで、サボって、心地よいと思えることだけすればいい。

 

 

どんな者でも、自分なりの世界モデルにてらせば、何も間違ったことはしていない。わたしはいつも(always)、どこの道でも(all ways)あなたを愛している。あなたがわたしに愛されない道(way)などありえない。

(中略)

わたしは決して罰しない。あなたがたはこの世でもべつの世でも、やめようと思うまでは自分を罰するという選択をするかもしれない。だが、わたしは罰しない。わたしは傷つくことも被害を受けることもないからだ。わたしの一部としてのあなたも、傷つくことも被害を受けることもない。

あなたがたのなかの誰かは、傷ついた、被害を受けたと感じることを選ぶかもしれない。しかし、永遠の領域に戻れば、どんな被害も受けていないことに気づくだろう。そのとき、あなたはもっと大きな計画を理解し、被害を与えたと想像した相手を赦すだろう。

 

自分を、他人を、傷めつけるのも、断罪するのも、自分の選択ひとつであり、やめようと思えばいつでもやめられるのだ。しかし、良い人ぶって、赦してもいない相手を赦した、なんて嘘をついてはいけない。神様は、善人だから私たちを愛してくれるのではなく、極悪人であっても、決して罰することなく愛してくれるのだ。

大きな計画とは、以前ブログに綴った、「小さな魂と太陽」の逸話である。

 

chisuke926.hatenablog.com

 

この、狂気の世界を変えるためにできることの第1歩が、

自分という存在を、無条件に喜び、受け入れ、祝福し、愛し、感謝すること。

それが、他人を、周囲を、無条件に喜び、受け入れ、祝福し、愛し、感謝することになり、ひいては、世界を、地球を、宇宙を変化させることになる、そう私は信じている。

 

お読みくださりありがとうございます🥰。

すべてに感謝✨