ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

"人間としての基本的な性格は愛すること、すべてのひと、すべてのものを愛すること"

今、ライトワーカーと自負している私がやれる最強のこと──それは、

 

自分が自分であることを喜び、祝福し、受け入れ、愛し、感謝すること

 

これにつきる、と感じている。

この「喜び、祝福、受容、愛、感謝」というのは、サンマーク出版「神との友情 下」に詳しく解説されている神の五つの姿勢で、私はこの五つの姿勢がいたく気に入って、なにかにつけて呪文のように唱えたり、紙に書いて壁に貼りつけたりしてきた。

しかし、「神との対話」シリーズを読み込んでまだ日の浅い時期(30~40歳代)は、この五つの姿勢を自分に課すことは、逆に自分を追い込んだ。

3人のやんちゃな息子を必死で育てていた当時は、私の五つの姿勢は、

「悲壮、呪縛、否定、嫌悪、不平不満」だったかもしれない。自分の時間が1秒もなく、言うことを聞かない息子たちに振りまわされ、残業残業でなかなか帰ってこない夫を待ちわびながら、イライラしたり怒鳴りまくる自分に嫌気がさし、涙を流す日々。

苦しい、辛い、と心が叫んでいるのに、ネガティブな感情はいけないものと、無理やりに封じ込み、神の五つの姿勢を貫こうとしたんだから、我ながら恐れ入る。いまの私が当時の私に声をかけるならこう言うだろう。

「ちょっとちょっと、順序が逆だよ。まず、子供たちに対してイラつく自分を全面的に受け入れて愛さないうちは、子供たちのことも愛せないよ。どんなにお金がかかっても、世間からみたら非常識でも、一人の時間を作って、自分をたっぷり癒して喜ばせてごらん。」と。

しかし当時の私は、

「自分が子供にイラついてしまうのは、母としての修行が足りないからだ、やりたい仕事も特にないのに、子供から離れたいというだけでパートを探して保育園に預けるなんて考えられない。子供が小さいうちは母親は一緒にいてあげるべきだ。」と頑なに思い込んでいて、自分を楽にすることよりも、自らに苦行を強いることで悲惨な状況を乗り越えようとしていた。当時のことを突き詰めて思いだすと、自分や子供たちが可哀そう過ぎて泣けてくるので、これくらいにしておくが、この神の五つの姿勢を外界に向けるよりまず先に自分自身にじっくりたっぷり向けよう!と最近本気で思うようになった。

 

いまの私には有り余る時間がたっぷりあり、無尽蔵に、ではないけれど、職に就いていたころの貯金もそこそこある。

自分を喜ばせ、楽しませ、ワクワクし、毎日過ごそうじゃないか!と思ったのはいいけれど、これが意外と難しいことを知った。私の足かせになっているのは、

「日曜日以外、毎日毎日汗水流して働き、生活費を稼いでいる夫への後ろめたさ&今ほとんど無収入の自分への罪悪感」

である。

この足かせがあるために、4年前に仕事をやめて、せっかく時間とお金を自由に使える身分になったというのに、自分を喜ばせるだけの目的で大金をはたくことには抵抗があって・・・というか、考えもしなかった。大好きな旅行は、ダンナが休みを取ってくれるなら一緒に行く(6年行ってないぞ!)、或いは身内の冠婚葬祭で内地に行った際、ついでにプチ旅行する程度、沖縄では友達やダンナと月1~2回程度ランチをするのがささやかな楽しみ。コロナ茶番デミックが始まってからは、やんばるの自宅に引きこもって庭仕事やブログを書いたりすることに喜びを見いだす生活が続いていた。

もちろん、「喜び」であるために、大金や時間を惜しげもなく使うことが必須なわけではない。けれど、我が人生で、そういった体験が乏しいのは、決してお金や時間が工面できなかったからではなく、「自分は(大金や時間を好きなだけ使うほど)価値のある人間ではない」という根深い自己卑下意識から実施されなかった、というのが大問題なのだ。

 

この、おそらくまだ自分のどこかにひっそり巣くっている「自己卑下」と対峙すべく、私は自分自身に惜しげもなく大金と時間を使うことを、レッスンとして実施し始めた。

・・・と公言する割には大したことではないのだけれど、先日、初めて、「ひとりカフェ」に挑戦した。

もちろん、今までだって一人でお茶した経験はある。だが、今までのひとりカフェは「時間つぶし」が目的で、しかも行先は、ファミレス、モスやミスド、といったチェーン店であり、純粋に「このお店素敵だから行ってみよう!」と思い立って行くのとはわけが違う。

こんなささやかなことを実行するにも勇気がいったが、やってみてはじめて、

「なあんだ、こんなに簡単なことだったのに、なんで今まで一度も実行しなかったんだろ!」とあきれるほど、簡単、なおかつ、”自由”だった。自分を喜びや好奇心から遠ざけていたのは、まぎれもない自分自身で、「一人じゃちょっと・・・。寂しいしつまんない。」と言い訳をこしらえて、一緒に行動する時間を作ってくれないダンナをちょっぴり恨めしく思ったりしていたことが、バカバカしく思えた。

 

ちなみに、わたし初の、「自分だけのためのひとりカフェ」を叶えさせてくれた素敵なお店はこちら↓

Cafe.Kanasa - 字仲宗根のカフェ

古民家を改装した素敵な空間で、笑顔の素敵なオーナーさんの本格的なスイーツが楽しめる、おススメカフェです♡

 

「一人時間を楽しむ」ことは、ダンナ依存から抜け出すことにもなるので、これからもどんどんハードルを上げていこうと思う。まあ、でも、さしあたって次の目標はひとりランチかな(^_^;)

 

(以下太字・青字:サンマーク出版「神との友情 下」より引用)

どうすれば、一瞬一瞬に無条件の限りない愛を創造できますか?全面的な愛という神のような姿勢は、どうすれば身につきますか?

 

全面的な愛というのは、まったく自然なことだ。愛は自然なんだよ。通常ではないが、自然だ。

(中略)

「通常」というのは、ふつう、ありきたり、一貫しているというときに使われる。「自然」というのは、ものごとの基本的な性格だ。

人間としての基本的な性格は愛すること、すべてのひと、すべてのものを愛することだが、あなたがたにとってはそれは通常ではないね。

 

なぜですか?

 

 あなたがたは世の中を渡っていくとき、自分の基本的な性格に反した、自然ではない行動をするように教えられているから。

 

 でも、どうしてそうなるんですか?どうして、そんなことを教えられているんですか?

 

 自然な自己は邪悪で、飼い慣らし、抑制し、従属させなければならないものだ、と信じてきたからだよ。だから、自然でない「通常の」行動をするように、そこからはずれないように要求されてきた.。「自然」であることは罪で放埓で、危険でさえある悪だ、とね。「自然」のままの自分を見せることすら、罪だと言われてきた。

 

・・・ここまで入力して、はたと気づいた。↑の神様の言葉、これ、まさにいま、コロナ茶番デミックで行われている狂気そのものだね。

健康な人がマスクをするという「不自然さ」を強要するのは、私たち人間は、「自然」のままにさせると、苦しくて不快なのでマスクを着けない、という罪をおかしかねないからである。なので、政府が邪悪な本質を持った国民を飼いならし、抑制し、従属させるべく狡猾な画策をいくつも実施し、そして日本人は自己を優先することが他民族よりも得意でないために、あっさり騙されておとなしく従っている、という現状がまかりとおっているのだ。欧米などではもうとっくにマスク着用義務が撤廃されているのは、国民が、おかしな政策に従属させようという政府に対し、「NO!」を突き付けたからだ。

う~ん、大勢の日本人が、この「不自然さ」に気づいて、自分自身に完全なる「自由」を与えるには、やはり、世間の目より自分自身への愛が勝らないと難しいのかな。

 

 

 あなたがたの多くが抑圧しようとする自然な部分は、それだけではない。

真実を語ることでさえ、非常に自然なことなのにやめさせようとする。

宇宙への基本的な信頼も、非常に自然なことなのにやめさせようとする。

歌うこと、踊ること、喜び祝うこともやめさせようとする。

あなたがたの身体の骨の一本一本が、真の自分という純粋な驚異に爆発したくてうずうずしているというのに!

なぜ抑圧するのかといえば、自然な性向に「まかせたら」傷つくのではないか、自然な楽しみにまかせたら自分も人も傷つくのではないか、と心配だからだ。そんな不安を感じるのは、人類は基本的に邪悪だという「支える思考」があるからだ。自分たちは「罪を負って生まれた」から、もともと悪だと想像している。

(中略)

自分たちについての考えを変え、人類という種についての考えを変えなければ、全面的に愛することはできない。なぜなら、自分自身を全面的に愛することすらできないから。

それが全面的に愛することの第一歩だ。自分自身を全面的に愛さなければいけない。罪を負って生まれた自分は基本的に邪悪だと考えているかぎり、自分を全面的に愛することはできないよ。

人間の基本的な性質は何か?──これがいま人類の前におかれている最も重要な問題だ。

人類は本質的に信頼できない邪悪なものだと信じるなら、その見方を支える社会を創り出し、それを正当化する法律を制定し、規則を採用し、規制を実施し、制約を課すだろう。

人類は本質的に信頼できる善良なものだと信じるなら、まったくちがう種類の社会を創り出すだろうし、法律や規則、規制、制約はほとんど必要なくなるだろう。

最初の社会は自由を制限し、第二の社会は自由を与えるだろう。

神が全面的な愛であるのは、全面的に自由だからだ。全面的に自由だということは、全面的な喜びにひたされているということだ。全面的に自由なら、あらゆる喜びに満ちた経験ができる。

自由は神の本質だ。人間の魂の本質でもある。自由度が減少するにつれて、喜びも減っていく。それにつれて、全面的な愛の可能性も低下していく。

 

 

人類は、規則や規制で統治・管理しなければならない、なぜなら基本的に悪だから、という社会のなかで私たちは生きてきた。それに逆らうものは、悪人・罪人・反社会的・非常識・変人というレッテルを貼られてしまう。

コロナ茶番デミック以来、ワクチンを打たない、マスクを着けない、という、本来個人の選択の自由であるべき事柄ですら、従わない人は非常識で頭がおかしいかのような扱いをされているが、こんな時こそ、流行りものにのっかるのが嫌いな、あまのじゃく人間である私のような人種の本領発揮である。

 

自らに全面的な自由と、愛と、喜びと、受容と、祝福と、感謝を、惜しみなく注ぎまくり、ただそれを生きることによって、真っ暗闇の中のろうそくの灯りになれたらいいな、と悲壮な気持ちでからなく、ワクワクウキウキの状態で、ささやかに願っているワタシなのであった。

 

 

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