智恵につながる道を発見したと、人びとがあなたをうらやむような状況を創らないように気をつけなさい。そうなると、人びとはあなたに道を示してもらいたがるだろうが、それは非生産的で、それどころか危険ですらあるのだから。
危険なんですか?
自分たちには近づけない神の答えにあなたなら近づけると人びとが信じはじめたら、あなたにとって危険だろうね。
だからできるだけ努力して、そんなふうに思われないようにするのがあなたの仕事だよ。
あなたが世間で特別な存在にならないようにしたほうがいい。
あらゆる手を尽くして、あなたを「非特別化」しなさい。
もちろんあなたは特別だよ。ここで言っているのは、あなたがほかのひとよりももっと特別だなんて誰にも思わせてはいけない、という意味だ。
(中略)
特別な人間はこんなふうだろうという人々の想像をまったく裏切るようなこと──「聖人」や「導師」なら決してしそうもないこと──をしてみるといい。
ロックバンドのマネージャーになるとか、お笑いタレントになるとか。ボーリング場を開くとか。
ボーリング場を開いている聖人っていないんですか?お笑いタレントに導師はいないんですか?
冗談だろう?いくらでもいるよ。
でしょう。やったぜ!
ただし、人びとはそうは思っていないということだ。そこが肝心だ。だから突拍子もないこと、人が首をかしげるようなこと、特別な存在だと思われないようなこと、それどころか、なんて「特別でない」凡庸なやつだ、となじられるようなことをするんだね。
(中略)
だから、人間らしいままでいなさい。
古いものも新しいものもひっくるめて、すべての過ちについてあなた自身を赦し、ほかのひとたちに赦しを乞いなさい。
それから出かけていって、すべてのひとに、あなたがたが求めている答えはあなたがた自身のなかにあると言ってやりなさい。
(サンマーク出版:「神へ帰る」より引用)
「神との対話」の著者ニールさんは、ご自分の人生の数々の失敗を著者のなかで赤裸々に語っていますが、そんな人だからこそ、神様に対して正直に、真摯に、何度も何度も納得がいくまで質問を投げかけることができたのだろうし、かくいう私も、慈愛に満ちた心穏やかな女性、とは全くもって言い難い人間でして、せっかちで完璧主義、喜怒哀楽が激しく、筋を通さないと気が済まない、好き嫌いのはっきりした性格でございました。過去形なのは、一応、完璧主義はかなり緩和され、喜怒哀楽の激しさも自分なりにコントロールできるようになって、筋を通すところも、「正しいも間違っているもない」という教えがやっと呑み込めてきたところなので、人間的にかなり丸くなった、と言えましょう。
そうそう、忘れちゃいけないのは、「自己肯定感が低い」という、霊的成長の最大の妨げになる、困った性質。これを克服するのに、私はいったい何十年費やしたのでしょう
しかも、完全に克服したとは言い切れず、その証拠に、いまだ他人と自分をついつい比べてしまう癖が抜けず、他人が自分よりも輝いて見えると、羨望のまなざしが時に嫉妬になり、
逆の場合は、(自分のほうがマシだわ・・・)と安心したり。そのたびに、(げげっ!あたしったら、まだこんなこと感じるのかい!やめて~!)と軽くショックを受けます。
今では、少しでもこういった感情が湧きあがったら、即座に
①エゴむき出しの自分の感情を認め・受けいれる
②気づかせてくれた対象に感謝する
③ありのままの自分を愛し、エゴを手放す
④このことを再考しない
といった手順を踏んで、やり過ごしています。何度繰り返してもクヨクヨしないのがポイントです。
前回のブログで触れた、元スピリチュアル界の大御所、ドリーン・バーチューの豹変を知って、いろいろ考えさせられました。どんなに霊的成長を遂げ、チャネリングやリーディングの能力にたけ、悟りの境地に達したかのように見えたとしても、私たちがいかように変化するのかという可能性は無限にあり、その選択肢も限られてはいないのだと。
自分よりも優れている人に追従していれば間違いない、というのは大変に危険な在り方であり、たとえ、自分が人間的にまだまだ未熟者であったとしても、「自分にとっての真実」と合致するのか・しないのかを、つねに検証することを肝に銘じなければならないと、強く思います。
私は、「世間で特別な存在」でもなんでもないけれど、そういった人の言っていることや考え方を検証もせずに鵜呑みにすることがないよう、気をつけなくては!
せっかく高度に進化した存在が人類を助けようとしても、そのせいで結局、人類が彼らの助けを求めるようになったのでは、意味がないだろう。
大切なのは、人間たちが「ほんとうの自分」に関する目覚めを我がものにすることで、誰かの目覚めで代用することではない。
(中略)
だから、「もし、道で向こうからやってくるブッダに出会ったら、逃げなさい」(これは、穏やかに言い換えているのだがね)と言われるのだよ。
(中略)
彼がブッダのように見え、ブッダのように歩き、ブッダのように語り、ブッダのように行動するなら、彼はブッダではなくインチキで、あなたの関心や賞賛を求めているに違いない、ということだ。真のブッダなら、あなたがたから何も求めず、まして自分の偉大さを認めさせようとはせず、ただ、あなた自身の自己実現だけを望んでいる。
「ブッダ」を「キリスト」でも「聖母マリア」でも、誰に言い換えても同じですが、この指標を基準にすれば、世に氾濫している高次元からのメッセージや、霊的指導者の判別ができますね。
私自身は、ブッダのような大それた人間ではないものの、こうしたブログを発信する理由は、何かしらの賞賛を得たい、関心を持ってもらいたい(それによって自尊心が拡大する)というエゴからくるものなのか、それとも、自分が得た気づきを表明することによって、自己の創造性を発揮し、それが読者の気づきの促進になれば、なお良し、という、見返りを求めない純粋な動機からなのか、つねに目を光らせていなければと、思った次第です。
あなただけが、あなたを真実に連れていくことができる。なぜなら、真実のあるところは、ひとつだから。
あなたのなかにある真実以外に真実はない。そのほかはすべて誰かがあなたに言っていることだ。
(「神へ帰る」より)
お読みくださりありがとうございます。
すべてに感謝