ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”あなたの望みの源泉をあなたの外ではなく、あなた自身のなかに置く”

※太字はサンマーク出版:「新しき啓示」より引用

 

人間の行動も反応もすべて、二つの場所のどちらかで生まれる。愛か恐怖か。基本的に生命が生まれる場所はほかになく、思考や言葉や行動が生まれる根源は、ほかにはない。そして、この二つのうち、人間の行動の支えとしては、恐怖が圧倒的に優勢なのだ。

あなたがたの精神的仕組みと社会的しきたりのほとんどは、恐怖を基盤にしている。あなたがたは、何かから自分を守るために、そのような仕組みやしきたりを実行する。

(中略)

いま、人間の社会を支えている信念は、身体の課題に役立つ。それゆえに、あなたがたを大々的な機能不全に追い込む。

 

 

まだ、コロナ茶番デミックが収束しないことの理由として、世界中に蔓延している「恐怖」があげられます。私が最近つくづく感じているのは、日本の、大多数の人にとって、

コロナウイルスに感染してしまう」恐怖より、

「マスクをしないと、ワクチンを打たないと、周囲から、社会から、はみ出してしまう」という恐怖のほうが、大きいようだ、ということです。

というのも、身内や友達に、(控えめに)マスクやワクチンの危険性を訴えてみたりするんですが、かえってくる反応が、「でもノーマスクの人なんて誰もいない」「私のまわりはみんなワクチンを打つ」「マスクを着けないとトラブルに巻き込まれる」といった類のもので、誰ひとり、マスクやワクチンの有効性を私に熱弁してはくれませんウシシあせる

もちろんメディアでは、コロナウイルス感染の恐怖だけでなく、ノーマスクがいかに非常識であるかを、ヤラセで視聴者に擦り込んでいますから、当然ではありますが。

 

 この、大勢の人が抱えてしまっている「皆と同じでないといけない」「上に逆らってはいけない」という信念を突き崩そうと必死になっても、相手はますます耳をふさいでしまうのは、”自分で考える”ことへの抵抗が大きいのだと思います。自分で考えて行動することには責任が付きまといます。これを背負い込むのが億劫だったり、めんどうだったりで、長い事、”自分で考える”ことを放棄してきたので、もし、自分の頭で考えたとして、自分がいかに愚かな選択をしてしまってきたのかが明確になってしまったら・・・・・。

それを直視するのが怖いのではないでしょうか。

 

 考えてみると、もう、大勢の人にとって「恐怖」はおなかいっぱい状態ですよね。

そこに、「コロナワクチンはこんなに恐ろしいんだ!」と更なる恐怖を押し付けることは、拷問のように感じられるのかもしれません。だとすれば、一体どうすれば、世間にはびこっている「恐怖」を「愛」に変換できるのでしょうか。

 

 

存在の状態を変えることをめざしなさい。最初に世界を変えようとせず、まず自分を変えようとしなさい。

それができれば、あなたの行動は自動的に変わる。

(中略)

最初から世界を変えようと思っても変えられはしない。

まず自分自身を変えなければ、世界を変えることはできない。

自分とは何者かについて、神について、生命/人生について、自分のなかで新しい結論をだし、その決定を生きることからはじめなくてはならないのだよ。

この内的なプロセスは、実際にはあなたのまわりの世界を変える。あなたがふれる世界は、あなたのふれ方に影響されるからだ。

あなたが何者であるか、どんな存在であるか、ということは、あなたの想像以上に世界に大きな影響を与える。だが、覚えておきなさい。外界の平和を達成できないと動揺していたら、内なる平和も達成できない。

(中略)

人びとはこういう体験をすべきだというあなたの考えを分かち合うのではなく、あなたが知っているあなた自身の体験を分かち合いなさい。聞かれたら教えればいいが、あなたが彼らの答えを知っていると教えるのではなく、彼らは彼ら自身の答えを知っていることを教えてやりなさい。

それから、あなたが何者であるか、何ものであるかを選ぶというあなたの決断、あなたが分かち合う情報が、何か、あるいは誰かに、影響を及ぼすだろうという期待は捨てなさい。

結果を求めてはいけない。

 

 

これがなかなか難しいんです。私もいまだに「期待」を完全に捨てることができないでいます。

 

久しぶりに友達と連絡を取る機会がある→コロナの話題を避けて通れない→自分はマスクしてないよ、ワクチンも打たないよ、と理由もつけて伝える→相手の反応は鈍く、何となく気まずい状態になる→軽く落胆する

 

・・・こんな感じです。落胆するということは、私のなかに、「ちょっとでもいいから私の言葉が相手の琴線に触れて、気づくきっかけになってくれたら」という期待を捨てきれないでいるのです。

 

 

ほかの人たちの信念を変えさせたいから自分の信念を変える、というのはやめなさい。自分の新しい信念が自分をより正確に表すから、だから信念を変えるのだ。

(中略)

ひとは、変われと言われて変わるものではない。力のあるひとに命じられれば、一時は行動を変えるかもしれないが、それはほんとうの変化ではない。外向けの表面的な変化にすぎない。内側の真実は変わらない。

(中略)

従属は創造ではなく、創造だけが進化の行動だ。

だから、世界を変えようと思わないこと。世界に見たいと思う変化を、自分自身のあり方にしなさい。

 

 

世界に見たい変化は、平和・自由・安全・安心・思いやり・共感・創造・親切・癒し・真実・愛・・・があふれる世界です。

しかし、ここで、疑問が生じます。

私はそれほどの人間か?イライラしたり、悲しくなったり、ムカついたり、落ち込んだり、鬱になったり、取るに足らない、ちっぽけな自分が、そんなごたいそうな望む世界を、自分の在り方になんてできるのか?

 

 

平和と愛に到達する試みではなく、平和と愛から引き出そうとする決断は、正反対に働く。経験の軸をまったくひっくり返すのだ。あなたの望みの源泉をあなたの外ではなく、あなた自身のなかに置く。そうすれば、いつでも、どこでも、アクセスすることができる。

これが真の力だ。生命/人生を変え、世界を変える力だ。

このレベルの内なる平和と全人類へのまったき愛には、一瞬で到達することが可能だ。あるいは一生かかるかもしれない。すべては、あなたがたしだいだ。すべてはあなたがたがどれほど深くそれを望むかにかかっている。

(中略)

ある瞬間を迎える前に、自分自身の在り方を決めておいたとしよう。その瞬間がどんなものであっても、安らかでいようと決める。そうしたら、その瞬間の体験には違いが生じると思わないか?

(中略)

外からの瞬間が何をもたらそうとも、自分の内なる状態を平和や愛や理解、共感、分かち合い、赦しにすると前もって決めておけば、外の世界はあなたに対する力を失う。

(中略)

世界が平和でもなんでもないとき、どうすれば平和でいられるか?

世界が愛でもなんでもないとき、どうすれば愛でいられるか?

世界が赦しでもなんでもないとき、どうすれば赦しでいられるか?

残る世界がどうであろうと、自分は自分でいると主張することだ。

そうすれば、あなたがふれる世界はゆっくりと変わるだろう。

 

 

わたしたちは、神の一部です。つまり、愛・光なのです。それを忘れているがために、「そんなこと、できるわけがない」と思います。けれど、自分ができないのなら、誰もできないと言っているのと同じことになり、世界はいつまでもこのまま闇にうずもれていくだけとなってしまいます。

 

「いま」を迎える前に、自分の魂の源泉から、自分の望む在り方を引き出す。

これを無意識にではなく、意識的に行うことを自分に課せば、最初は大変かもしれないけれど、だんだんと容易に、楽しくなって・・・・くるんじゃないかな?

 

と、自分に言い聞かせ、今日のブログを終わりたいと思いますウインク

 

 

お読みくださりありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ