ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

「死とは何か④」”死は決して悲劇ではない。死はつねに贈り物である”

 

私がこのブログで引用させていただいている、サンマーク出版神との対話」シリーズでは、一貫して神様は次ようなメッセージを伝えています。

 

※以下太字青字サンマーク出版「神へ帰る」より引用

 

 

真実に連れていってくれるのは、ただひとりだけだ。

 

あなただけが、あなたを真実に連れていくことができる。なぜなら、真実があるところは、ひとつだから。

 

あなたのなかにある真実以外に真実はない。

 

 

そして、先日アップした記事

 

この内容についても、神様は次のように諭します。

 

さっきの言葉にまったく同意できなくても、あなたはあなたの真実に導かれるだろう──「わが家」に戻る道を見つけるだろうよ。

なぜなら、ここで語られる言葉に同意しないなら、ほかの何に同意できるかがわかり、べつの道をとるだろうから。もしもその道もあなたの道でないとしたら、また別の道、さらに別の道と、混乱から抜け出て「わが家」に戻る道──神へ帰る道──を見つけるまで道を探すだろう。

(中略)

そうやってすべてがうまくいく。あなたの人生/生命全体があなたを「わが家」へ、「わたし」へと導く。だからすべての出来事、すべてのひと、すべての瞬間を祝いなさい。どれもが聖らかなのだから。

ある出来事に同意できなくても、あるひとが嫌いでも、ある瞬間を楽しめなくても、すべては聖らかだ。生命は、生命というプロセスを通して、生命についての情報を生命に伝えているのだし、あなた「自身」について「生命/人生」が語ることを知って体験するほど聖らかなことはないのだから。

 

 

地球に生まれてれてきたということは、創造主・神から切り放された(かのように感じられる)三次元の中で、無数の魂たちと一緒になって、互いに唯一無二の体験をすべく、ありとあらゆる出来事を創り出しているわけで、ネガティブ体験あってこそのポジティブ思考への切り替えができるわけです。

だから、神様は、嫌いな人がいても、楽しめない瞬間があっても、全ては「自分」についての情報を明らかにしてくれる聖なる体験だ、と言うのです。

 

例えばすごく嫌いな人がいて、無視したり意地悪したりしたとしましょう。だれにでも覚えがあることかもしれません。けれども、こういったことをしてしまう根本には、「自分は誰にも愛されていない。そんな自分を愛せない」ことからくる、むなしさ、苦しさ、悲しみがあります。そんな自分の感情を無視していても、いずれ必ずそれを自覚させられ、否応なしに自分に向き合う時が訪れます。

こういったプロセスを辿ることによって、自己愛の大切さを学び、成長していくことができるのです。はじめから、神と一体感がある状態では、成長するというプロセスの体験は困難ですし、悪役をリアルに演じることもできなくなってしまいますから、地球では記憶喪失になるわけなんですね。

 

 

人生のすべての出来事を──死をも含めて──贈り物としてみれば、いつも自分のために役立ち、喜びに導いてくれる宝物が見えるだろう。

死をも含め、どんな出来事も悲劇としてみるなら、あなたは永遠に嘆きつづけるだろうし、終わりのない悲しみしか受け取れない。

そこで──。

 

●思い出すこと──その五

死は決して悲劇ではない。死はつねに贈り物である。

(中略)

 

死さえも悲劇ではなく贈り物だとみることができれば、人生のほかの出来事もみんな・・・・

「かずかずの小さな死」も・・・・贈り物に見える・・・・わたしがされた悪いことや、わたしが誰かにした悪いこともすべて。そうなったら、もう悲しむことなんかないんですね。

 

あなたも、ほかのひとたちも、悲しむことはない。

あなたが自分の「かずかずの死」を上手に生きれば、ほかのひとたちも、あなたのかずかずの死を上手に生きるよ。小さな死も大きな死も。

(中略)

「かずかずの死」を──つまり、挫折や喪失などを──怖がっていれば、生きることも怖くなる。だからあなたは死ぬことを恐れ、生きることを恐れている。

なんという生き方だろうか!

 

 

「死は贈り物」──こんな考え方を即座に受け入れられる人は、そういないかと思います。

なので、まずは、日常起こりうる、「かずかずの小さな死」──たとえば、コンタクトレンズをなくした、お気に入りの服が縮んでしまった、車が故障してしまった、失恋した、失業した、などなど、小さな喪失を贈り物として捉える練習をしてみるといいかもしれませんね。

喪失を贈り物としてみるために必要なことは、まず、自分はこの世に生きて、何を達成したいのか、どんな人間で在りたいのか、という哲学的な問いの答えを、自分で創り上げなくてはいけません。この答えを外から探してきてはいけません、自分で考えて自分で決めるのです。

たくさん所有することに大きな喜びを感じる段階であれば、かずかずの小さな死を上手に生きることはちょっと難しいかもしれませんが、散々喪失による悲しみや苦しみを味わえば、

「もうこんな体験、うんざりだ!」と、自分で自分の視点を変えようという気になるはずです。

あらゆる体験で湧き上がってくる感情は、自分の視点によってみずから創りあげているからです。

 

湧き上がった悲しみや寂しさを認めずに押しのけてしまうのではなく、「もう十分味わったから次のステップに行きたい」と思えるまで、味わいつくしてから、溜め込みたくない負の感情を解放する練習を、ちょっとずつ始めるとよいと思います。繰り返しているうちに、習慣化して、ちょっとやそっとじゃ動じなくなったり、「今日も、新たな学びの種が贈られたきたぞラブラブ」と前向きな思考が定着していくでしょうほっこり

 

 

客観的現実として存在する「真実」などないのだから。

視点が認識を創り、認識が経験を創る。認識があなたのために創った経験、それがあなたの言う真実だよ。あなたの真実とは、じつはあなたの経験だ。そのほかは、すべて誰かが経験し、あなたに語ったにすぎない。それはあなたとは何の関係もないのだ。

(中略)

すべては「見えている」とおりだ。そして、どう見えるかは認識によって決まる。

認識は視点によって決まるし、視点は客観的ではない。主観だよ。それはあなたが経験する何かではなくて、選びとる何かだ。

(中略)

客観的な観察は不可能だ。観察されたもので、観察者に影響されないものはない。

(中略)

なぜならこれは純粋な科学だから。量子物理学の初歩だよ。

何でもいいから量子物理学の本を読んでごらん。

 

それじゃ、わたしはどんなふうに見るかによって、見るものに影響を及ぼしているとおっしゃるんですか?

 

あるいは、まったく見ないことによっても。そう、わたしはそう言っている。そのとおりだから。

 

 

一人ひとりが、起きた出来事や存在するすべてををどう見るかによって(または無視することによって)、更なる出来事が創りあげられていく──これが、たった一人の人間での思考も、世界に影響を及ぼすことができるという仕組みなのですね。

なんだか、コロナ茶番デミックも、コロナワクチンによる害も、視点を変えることによって、いかようにもなりそうな気がします爆  笑音譜

 

量子物理学、もっと勉強しなくちゃ~あせるきっと理解が深まるはずね。

 

 

お読みくださりありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ