ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

「死とは何か⑧」”自分や誰かの目を深く見つめるとき、そこに見えるのは魂だ”

 

以下太字青字サンマーク出版「神へ帰る」より引用

神へ帰る(サンマーク文庫)[ニール・ドナルド・ウォルシュ]

死ぬと、ある小部屋への通路に存在している自分がいます。振り返ると、「死」と書かれた扉があり、そこからやってきたようです。扉はまだ開いています。この通路で、死の三つの段階をすべて通り過ぎることになります。

 

 

あなたはこの通路で、死の三つの段階のすべてを通り過ぎる──そして何かが過ぎ去って失われていくと感じるだろう。

ここで過ぎ去るのは、物理的な身体としての自分自身の感覚だ。自分はなおも何ものかであると感じるが、「自意識」のなかから、身体があるという意識がなくなる。

この段階で起きるのは、あらゆる物理的な限界、経験、感覚が浄化されるということだ。これが死の第一段階であり、あなたは自分が身体ではない──しかし、まだちゃんと生きている──と気づく。

「死」と書かれた背後の扉はまだ開いているし、振り返れば向こうに物理的な世界が見える。

さて、あなたは死の第二段階に進み、気づきか混乱か、何にしろ、経験すると予想していたことを経験する。この第二段階のあいだは、開いた扉を通って物理的な世界と行き来できる。物質的な感覚として自分自身を経験することはないが、しかし物理的な世界にいるとはっきり感じるだろう。

まだ身体をもって生きているほかのひとたちも、あなたの存在を経験するかもしれない。

「死」のあとには何もないし何も起こらないと信じていれば、死の第二段階を通り過ぎて「無」に入り、何も経験しないだろう。そのことは前に話したね。

死の第二段階には、好きなだけとどまることができる。

 

 

この、死の第一、第二段階については、前回の記事で取り上げました。

 

 

死の第二段階を経験している最中、物質界へちょこちょこ顔を出す霊(スピリット)は多いようです。

 

”魂は、身体から離れる前でも、よく愛する者のもとを訪れる”

 

と神様は言っています。

いわゆる危篤状態の幽体離脱や、死後の幽霊として物質界に現れるわけですね。

そして、いよいよ第二段階での経験を終え、準備が整うと、死の第三段階へ進むようです。

 

 

もう背後の扉は閉ざされ、前方の通路しか見えない。

(中略)

「自分の存在の核心」である小部屋に通じるこの通路は薄暗いが、しかし怖いところではない。むしろあたたかくてやわらかで、ほのかに明るい。

明るいのは通路のはるか前方に「光」があるからだ。その「光」は最初は小さな点だが、近づくにつれてあなたの視野のなかでどんどん大きくなり、ついにはその「光」が──。

──存在するすべてになる。

さあ、合体の瞬間が目前だ。この瞬間の力強さと驚異は表現を超えている。そこから来る情報と知識は意識のレベルでは把握しきれない。想像するのも超意識のレベルでしかできないのだから、まして理解できるはずがない。

 

 

この、神、光、すべてのエッセンスとの合体の経験について記載するととても長くなるので、要約すると、

 

エッセンスから発せられる純粋な愛に、魂はすっぽりと包まれ、あたかも、アイスクリームがホットチョコレートソースに覆われるかのような感覚になる。それと同時に、余すとことなく自分のすべてを見られていて、何も隠したり、ごまかしたり、見落とされることもなく、魂が抱いている自分についての善悪などのジャッジも、すべてさらけ出され、その全部がゆっくりと光のなかに吸収され、ありのままで受け入れられた、という感じになる。自分のなかにあるごく小さな恥もプライドも、全て溶け出してしまい、魂のなかに残っているのは「開放」だけとなる。

この「開かれた場」に、一千もの感覚が寄せ集められたかのような、巨大で壮大なひとつの感覚が、ゆっくりと魂を満たす。

その感覚を不十分ながら言葉にすると、絶対的な愛に、深く・温かく・心底・完璧に・まるごと・全面的に・無条件に、包まれ・はぐくまれ・抱きとられ・理解され・称えられ・認められ・歓迎され・守られ・愛される──これらがひとつになったものが、魂を満たす。

個としての感覚をすべて投げ捨てた魂は、「光」のなかに入っていき、欲求は消え、比類なく美しい感性のなかへ溶けこんでいく。

 

死の第一、第二、第三段階をとおして、自分は、身体でも、精神でも、霊(スピリット)だけでもなく、その三つすべてであると知ります。

 

 

この「自己との全面的な溶け合い」のなかで、あなたは「知ること」と「経験すること」がひとつである場に、そして自分は身体でも精神でも魂でもないことを知って経験する場に到達する。あなたはそれよりはるかに大きい何者かだ。

あなたはそのすべてを生み出すエネルギーの総和なのだ。

死において、あなたの個々のアイデンティティはすべて脱ぎ捨てられて、「あなたの」「あなたからの」「分離」はついに終わる。

 

 

何だか壮大過ぎて想像するのがむずかしいですが、絶対的な安心感のなかでの、至福の、歓喜の体験であることは間違いないようです。しかし、この体験は、死んでからじゃないと味わえないわけではなく、瞑想やヨガ、祈り、舞踊、儀式といったツールや、日常の家事、仕事、入浴の最中でも感じることは可能だと神様は言うのです。

必要なのは、

 

あらゆる生命の驚異と畏怖を感じ、そしてその充実感を経験しようとする単純な意志、純粋で真摯な欲求

 

だけだと。

さらに、「すべてひとつである」感覚にとどまるには、

 

 

要するに、焦点の置き方の問題というか、存在全体の中心を決める(センタリング)の問題なのだよ。

(中略)

人生の「いま、ここ」という瞬間に自分の存在のすべてがある、身体と精神と霊のほんの一部でも「どこかほかに」ふらふら出かけてはいない、ということだ。

 

 

これが!これがむずかしいんですよ~。私は絶えず妄想している人間なので、精神を黙らせるのにホント、手を焼いています。

なので、もっぱら瞑想はヴィジュアライゼーションになってしまうのです。

自分を空っぽにするより、想念一つに集中するほうが、私にとってははるかにやりやすいんですよね~笑い泣き

 

神様は、有効な方法として、鏡で自分の目をじっと見つめることや、パートナーや友人、愛するペットの目をじっと見つめることも推奨しています。

落ち着かない気持ちになっても目をそらさず、深く見つめていくと、相手の自己と自分が混ざり合い、やわらかな内なる輝きへと溶けこむのだとか。

けれど、誰かの目をじっと見つめると、相手が「何、どうしたの?気持ち悪いぼけー」とか言い出すかもしれないのであせる手始めに自分の目を見つめることから、または、動物を飼っている人はペットでやるとよいかもです。私は時々飼い猫たち相手にやってますが、真剣にやると100%泣けます汗

手のかかる幼いわが子にイライラしてしまう時も、ほんの一分でも、深く子供の目をじーっと見つめると、きっとイライラが消えてしまうんではないでしょうか。

 

 

自分や誰かの目を深く見つめるとき、そこに見えるのは魂だ。目は魂の窓なんだよ。

 

 

さて、「エッセンス」との合体段階には好きなだけとどまることができるようですが、永遠にいることはないようです。そこでは、経験の喜びを知る能力を失ってしまうからだとか。そして、「全面的な溶け合い」のあいだに経験する猛烈なエネルギーの変化によって、エッセンスから押し出され、記憶しているアイデンティティがまた再創造され・・・・。

そしてよく言われる、自分の人生を回顧する場面へと移ります。

それも、自分の視点からだけではなく、関わったすべての人の視点からも、人生で起きたことのすべてを、ひとつひとつ振り返ることとなるのです。

自分がひどい仕打ちをしてしまったあれやこれも、相手の立場になってあたかも再体験するのですから、さぞや苦しいのでは?と思ってしまいますが、「ひとつであるもの」との合体において、”自分が思い込んでいた自分”とは「さようなら~」して、すべてであるものの一部としての自分、神である自分、光である自分を十二分に思い出した後のことなので、罪悪感に浸ったり加害者・被害者意識を持つことはなく、自分の人生のストーリーを、「主役・自分の巻」や、「主役・配偶者の巻」などなど、客観的にじっくり観賞するのです。

 

さあ、自分の生きてきた人生の「振り返り」が終わると・・・・その先に待ち受けているのは何なのでしょうか?!

 

続きはまた次回のお楽しみです!!

 

 

お読みくださりありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ