※以下太字:サンマーク出版「神へ帰る」より引用
●思い出すこと──その四
「わが家」へ帰る道のなかで、ほかの道よりとくに良い道はない
(中略)
人びとが戻りたがっている「わが家」とは、いったい何なのだろう?
たいていのひとは、「わが家に戻る」とは、神のもとへ戻ることだと考えている。
だが、神のもとに「戻る」ということはありえない。あなたは一度も神のもとから離れていないのだから──神は最初からずっと「わが家」にいたのだから──そしてあなたの魂はそれを知っているよ。「あなた」は意識のレベルではそれに気づいていないかもしれないが、魂は知っている。
これはつまり、私たちが地球上に人間として誕生する理由は、「神と離れている」、という錯覚の分離意識をもって人生を過ごす中で、ふたたび神に戻る──神とともにいる自分を、体験によって再び思い出す、という目的のためですが、その際にたどる道は、たったひとつではない、ということを指しています。
それぞれが自分の道をたどって「わたし」のもとへ来ればいい。それぞれ、「わが家」への道をたどればいい。
ほかのひとがどんな道を通ろうと、心配したり批判したりしないこと。あなたもほかのひとたちも、「わたし」のもとに到達できないはずはない。
それどころか「神とともにあるわが家」に着いたとき、あなたがた全員が再会し、どうしてお互いのあら探しをしたのだろうと不思議に思うだろう。
魂レベルでは、一瞬たりとも神から離れたことはないと知っていますが、地球に生まれ出ると、体験をよりリアルに感じるために、私たちはその記憶をいったん忘却の彼方へと押しやるのです。そして、魂(神の一部)が望んでいること──ありとあらゆる「神性」を、体験し、感じつくし、
「THE神の神髄!」にたどり着くプロセスそのもの、とでも言うんでしょうか、それを宇宙という壮大な実験の場を使ってみんな一緒に絶賛実行中!ってところでしょうか。
そのプロセスとは──
感じるためには知識だけではなく体験が必要なんだよ。
感情は魂の言葉だ。
自分自身についての気づきは、本当の自分を十全に感じることを通じて達成される。気づきのプロセスには二つの要素があるから、そこに到達する道も二つある。
魂は霊的(スピリチュアル)な世界の道を通って完全な知に到達し、物理的な世界の道を通って完全な体験に到達する。
どちらの道も必要で、世界も二つある。
この二つが合わさって十全な感情が創造され、その感情が十全な認識を生み出すための、完璧な環境ができる。
「わが家」とは「完了」という名の場なのだよ。
(中略)
「絶対的な気づき」の瞬間──これはほんとうの自分を完全に知って、体験し、感じる瞬間だが──に達するには、順番に段階を踏まなければならない。
ひとつの生涯がひとつの段階だと考えていい。
どんな魂もひとつの生涯で「絶対的な気づき」に到達することはない。幾多の生涯を通じてたくさんの段階を積み重ね、その結果「完璧な完了」「絶対的な気づき」が生まれるのだよ。
ようするに、人間はたった1回の人生を生きたくらいじゃ、到底「絶対的な気づき」には至らないため、何度も何度も転生をくりかえすわけです。そりゃそうですよね、十全に感情を味わうには、様々な役割──金持ち、貧乏人、王者、奴隷、男、女、権力者、聖人、犯罪者、殺人者、勇者、小心者、裏切者、卑怯者、虐待者、賢者、障がい者、絶世の美女、スター・・・。なんか思いつくまま書いてみましたが、さぞ多種多様な役を演じてきたのだろうと想像できます。
けれど、周囲を見まわしてみれば、日常的に「神様」だの「魂」だのに意識を向けている人は(日本人は特に)稀じゃないでしょうか。
でも、たとえ生涯無神論者だったとしても、
「すべての魂は死後に安らぎを見いだす」
と神様ははっきり言っておられます。
すべての魂は死後に安らぎを見いだす。ただし、すべての魂が死の前に安らぎを見いだすとは限らない。
あなたが死ぬとき、完了していないなんてことはありえないが、それに意識的に気づいていないことはありうる。
「安らぎ」とは、自分が完了したと意識的に気づいていることだ。
もう自分がなすべきことはないと気づくことだ。
もうなし終えたと気づくことだ。
すなわち、終了だ。
そして「わが家」へ戻れる。
びくびくと不安におののいてふるえながら死を迎えても、あきらめたくない、まだ終わっていない、これから自分の生命に何が起こるのか、自分はどうなるのか怖いと思っていても、やはり目的地に行き着く。そこに行き着かないことなどありえない。
死後、だれでも「わが家」、つまり、神・ソース・根源・光・創造主(それぞれのしっくりくる解釈でいいと思いますが)のもとへ無条件に戻れると、はっきりわかっていれば、それだけでも死ぬことへの不安感が薄れます。けれど、べつに死ぬまで待たなくても、生きているうちに「わが家」にいることを体験できるのです。
あなたはつねに「神性」に浸されている。たったいまもそうだ。それどころか、あなたは「神性」なのだ。「神性」であり、「神性」に浸され、「神性」そのものを「神性」の個別化された側面である自分として表現している。
したがって、あなたは真の意味では「わが家」への帰り道にいるのではない。すでに「わが家」にいる。あなたはつねに「神とともにあるわが家」にいる。
じつはあなたは、自分が行きたがっているところにもういるのだよ。そして驚くべき秘密とは、そのことを知ったとたんに体験できる、ということだ。
(中略)
だが、それを知らないから、自分が旅の途上にいるという体験をする。だから、旅は必要なかったということを発見する旅をしなくてはならない。
道のはじまりと終わりは、つねにいまあなたがいるところだ、ということを発見する旅に出なくてはならないのだよ。
なんだか、知れば知るほど、人生をこんなに複雑にしちゃっている原因は、紛れもない自分なのだな、と思い知らされますね
人は、愛を、幸せを、安らぎを、追い求め探し求め、それが思うように見つからないと、怒ったり、嘆いたり、苦しんだり、悲しんだりしますが、じつは、最初っから自分の内側に「それ」はあったのです。
それを知れば、生きることも死ぬことも、楽楽・嬉々として経験できます。
もうそろそろ、ドラマにどっぷりはまって生きるのも飽きてきたな・・・と思ったらそれがチャンス!
今が目覚めのときですよ~
お読みくださりありがとうございます。
すべてに感謝