以下太字・青字:サンマーク出版「神へ帰る」より引用
●思い出すこと──その12
すべての人の死は、つねにその死を知るほかのすべての人の課題(アジェンダ)に役立つ。
だからこそ、彼らはその死を知る。
したがって「無益な」死は──生も──ひとつもない。誰も決して「むだ死に」はしない。
神様は言います。地震や津波といった大災害による死も、お年寄りの病死も、幼い子供の事故死も、暴力的な最期を迎えたひとの死も、ひっそりと目立たない死も、たとえどんな死であろうとも無益なものはなく、すべての死は地上を離れるひとたちと遺されるひとたちにメッセージをもたらす、と。
そのメッセージとはいったい何なのでしょう?
そのメッセージとは、あなたがこれであると述べるものだ。
その目的とは、あなたがこれであると示すものだ。
あなたが自分の人生/生命を生きることを通じて述べ、示す。
あなたがメッセージであり、メッセンジャーだ。あなたが創造者であり、被造物だ。
幼い子供が親からの虐待によって死んだ、という報道ひとつにしても、それを知った大勢のひとたちの心のなかでは、それぞれ異なる感情が呼び起こされるでしょう。例えば、ある母親は、日頃の自分の子供達への態度を反省して、ちょっぴり優しくなれるかもしれません。ある人は、虐待した親に激しい憤りを感じ、その親の情報を探って、SNSで誹謗中傷するかもしれません。ある一人の幼子の死が、一つのきっかけとなって大勢の人間の在り方を創造することになるのです。
私個人の経験で言えば、我が家は犬・猫を多頭飼いしているので、今までに犬1匹、猫5匹を見送ってきました。そのすべての死が、どれほど私の成長を促してくれたか計り知れません。どのコの死も、すべて状況も違うし、私が体験した喪失感・激しい悲しみ・苦しみもそれぞれに違うし、なかには達成感を感じた死まであります。そして、いずれも、深い悲しみの先には、ともに生きてくれたことへの感謝の念が湧き起こり、生と死のすばらしさを繰り返し認識させてもらうのです。
●思い出すこと──その13
誕生と死は同じことである
死の経験と生の経験は同じなんですか?
「存在の核心の中心部」ではそうなのだよ。あなたの魂にとっては、そうなのだ。どちらも単なるエネルギーの減衰だからね。電力の変圧器のようなもので、ひとつの世界からつぎの世界に移行させるための仕組みだ。死や誕生という言葉をなくしてもかまわない。どちらも創造という言葉で代えることができるから。誕生と死、それは創造の瞬間だ。
(中略)
「生命そのもの」であるエネルギーの「微調整」が行われ、周波数が上昇して物理的な世界の物体として現れる。あるいは振動数が低下して霊的な領域に見えないエネルギーとして現れるときだ。
宇宙全体がそうやって生まれる。あなたもそうやって生まれた。
そして──ここに秘密があるのだが──誕生にあたってあなたが持ち込んだエネルギー、それこそが「肝心なもの(what matter)」なのだ。つまりそれが物体(matter)に変化して、物理的な世界に現れる。
死の瞬間には、それと正反対のことが起こる。したがって、あなたは死にあたっては物理的な世界から死へと持ちこんだもので創造し、誕生の際には霊的な領域から誕生へと持ちこんだもので創造するわけだ。
霊的な領域から物理的な世界へ誕生する際は、物理的な世界がどんな場であるか、充分認識したうえで誕生してくるわけで、単純に比較して考えるとこちらのほうが死ぬよりよほど勇気がいる、というか、武者震いがする、というか・・・・。
だって神様と一体である自分をすっかり忘れて生きていくなんて、何と心細いことか!霊的な場では、神も自分もほかのすべても一体だ、という認識を骨の髄まで知りつくし、今度はそれをリアルに経験するために全部忘れ去るなんて・・・・。これって怖くないですか?
でも私たちはその心細さを十分知って覚悟したうえで、この世に生まれ出たのですから、もう、それだけで「よくぞまあ、たいしたものだ!あんたは偉い!」と、自分のことを絶賛していいんじゃあないでしょうか。こんな勇敢な魂ってありますか?場合によっては、愛する魂の成長のために、あえて悪役になる魂もいるんですよ、そう考えると、この世のすべての事象が、愛おしく、感謝の念が湧いてくる気がします。
”小さなことを大きな愛でやろう”
は、私の座右の銘とも言える言葉なのですが、いつも実践しているかというと、疑問符・・・です。誰かに向けるまなざし、つぶやく言葉、すれ違うだけのひとにも愛を送る──やろうと思えば、いくらでも、大きな愛を注ぐ対象は巷にあふれかえっています。
せっかく意を決してこの世に生まれ出たのですから、どうせなら、「愛」の経験をいやというほど味わって、その経験を持ち帰ってあの世に行きたいものです!
お読みくださりありがとうございます。
すべてに感謝