ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”自己愛は自己の外側にある何かから受け取る愛ではない。自己愛とは、自己による自己への愛だ”

以下、太字・青字は、サンマーク出版神との対話④」から引用

 

 

わたしには理解できないんです。愛とはわたしたちすべてであるなら、なぜ、一部の人間たちはとても愛があるとはいえない行動をとるのでしょう。(中略)

 

誰も、自分が愛情がないと思うことはいっさいしないのだよ。彼らがすることはすべて、愛しているからなのだ。

 このことはつねに覚えておきなさい。すべての行為は、愛の行為である。これはあらゆる人にとっての真実で、例外はない。

 

 殺人者でも?レイプ犯でも?泥棒でも?カルト的な宗教者でも?人種的偏見に凝り固まっている者でも?政治的暴君でも?金融詐欺師でも?ひとの心を弄ぶペテン師でも?

 

 もっと深く見ることだ。目覚めるとは、深く見ることなのだよ。

 すべての知覚ある存在のあらゆる決断と行為の背後にあるのは、何かへの愛だ。

 一部のひとや集団の行為の理由を理解するためには、こう問いかけなくてはならない。あなたは何をそんなに愛しているから、そういうことをしなければならない、と思うのですか?

 問題はひとびとが愛していないことではない。問題は、ひとびとが愛し方を知らないことだ。

 だからといって、彼らの行為が正当化されることはいっさいないが、しかし、説明がつく。

 成熟した種ならば、純粋に愛を表現する方法を覚えているのだよ。

 

 

 神様は、残虐・卑劣・差別的な行為ですら、背後にあるのは”何かへの愛”だと言っています。確かに、「愛=魂=すべて=神」 であるならば、善人には愛があるけれど悪人には愛がない、とは言えませんね。わたし達は愛でできているのに、残虐行為をする人間がいるのは、例えば愛している対象が、権力・お金・成功だったりするから・・・・ということでしょうか。

 よく親子間でみられる歪んだ?愛のかたちでは、「あなたのためを思ってしている(言っている)」という、親から子への押し付け・過干渉があります。これも、親の側は子供を愛しているからこそ、あれこれと干渉していると思い込んでいますが、親の側がまだ未熟ゆえに、純粋な愛の表現方法がわからず、自分本位の愛を子供にぶつけている、と言えるでしょう。

 

 

 「純粋に」愛を表現するとは、自分への見返りを何も考えず、また必要としないことだ。

純粋な愛とは無私の行為で、完璧に幸福であるために何も必要ではないし、求めないし、要求もしないという自己の気付きに基づいている。

 これが、「神性の自然な状態」だ──ついでに言えば、神が誰にも何も求めず、要求せず、命令しない理由もそこにある・・・・まして、惨めな、あるいは下品で卑屈で屈辱的で卑しくて恐怖に満ちた従属など、求めるわけがない。

(中略)

愛の純粋な表現はすべて、愛する側のためになる。純粋に愛する者たちはすべて、そこで生命にとって可能な限り、最高に、そして充分に「真の自分」を経験できるのだから。

 生命そのものの究極の目的は、「愛そのもの」の究極の表現を通じて「神性それ自身」の究極の経験をすることで、それが「神そのもの」の究極の定義なのだよ。

 

 

ここで、「神との対話」の著者、ニールさんは、人間がそんな「神そのもの」と言える純粋な愛を実際に経験することは可能なのかと、そんな愛を感じることができるのかと、口を挟みます。確かに、なんだか「純粋な愛」なんて畏れおおくて、ひゃ~無理無理!と逃げ出したくなる人もいるかも?しれませんが、神様は、驚きの回答をするのです。

 

 

 可能どころか、すべての人間はそうしてきたのだよ。地球上で、それをすでに感じていない人間はいない。

 彼らはたぶん、赤ん坊を胸に抱きあげたときにそれを感じるだろう。たぶん、ある場所への、あるいは何か物質的な対象への、そのような愛を感じるだろう── 一見、何の意味もないような、お気に入りの枕かもしれないし、ぬいぐるみかもしれない。植物や樹木に、日の出や日没や夜空にそんな愛を感じるかもしれないね。

(中略)

 誰でも、そういう愛を感じてきた。わたしのあなたへの愛もそうだ。あなたがたひとり残らずすべてへの愛だよ。

 あなたが、ただその美しさゆえに、ただすばらしさゆえに、ただ喜びのゆえに、ただそれがもたらす幸福のゆえに、何かを愛すると、そのエネルギーはあなたのなかで熱く光り輝き、あなたから放出される。そのときあなたは純粋に愛している。

 その愛を送る見返りに何かを得ようと思うなら、あなたは何か、あるいは誰かを愛しているのではなく、自分自身を愛していて、何かあるいは誰かをその手段として利用しているに過ぎない。

 

 やられましたね。でも、自分自身を愛することはいけないんですか?だって、すべての愛は自己愛から始まるのではありませんか?

 

 そうだよ。だが自己愛は自己の外側にある何かから受け取る愛ではない。自己愛とは、自己による自己への愛だ──ほんとうの自分とは何者で何なのか。そのほんとうの自分であることの混じりけのない美しさ、混じりけのない驚異、混じりけのない喜びゆえの愛だね。

 

 

 誰かに何かを言われて傷ついた、もっと褒めてほしい、賞賛してほしい、認めてほしい、好きだと言ってほしい、こんなに愛しているのにどうしてわかってくれないのか、これだけのことをしてやったんだから感謝して当然だ──ありのままの自分を愛することができないために、外側の評価や見返りを得ることによって自分を愛そうとする、不純な?愛のかたちですね。

結局、いつもの結末に至りますが、スタートは、

 

外側に証拠を求めずに、ありのままの自分を、全面的に、受け入れ愛すること。

 

美人じゃなくても、スタイルが悪くても、偏差値が低くても、短気でも、気が利かなくても、

不器用でも、運動神経ゼロでも、口下手でも、引っ込み思案でも・・・・・。

どんな自分であっても、まるごと愛するというのは、親からそのように愛された人ならいざ知らず、大概は条件付きの愛で育てられるので、なかなか難しいですよね。

そんな私たちに、神様は言います。

 

 

 あなたがたは完璧だ。ただ、いまのままで、あなたがたは完璧なのだよ。

 あなたがたが生後一日の生まれたての新生児に、生後一週間の赤子に、生後一か月の嬰児に、一歳の幼児に、美しさと完璧さ以外の何も見ないように、わたしはあなたがたのなかに完璧さしか見ていない。

 ところで、それはあなたが百歳に・・・・いや一千歳になっても、同じだろうね。その歳月は宇宙の生命にとってはひとつの鼓動よりも短いのだから。

(中略)

 わたしは、いつも何の見返りも求めず、何も必要とせず、何も要求しない純粋さであなたがたを愛してきたように、いまもあなたがたを愛している──あなたがたとわたしは「永遠にひとつ」であり、その経験こそが、「わたしたちの自己」が望んでいるすべてだから。

 

 

神様がこんなにも私たちを愛してくれているのに、自分が自分を愛せないはずがありましょうか。

しかも、「いい加減悟ってくれよ」という年齢に達した偏屈なじじい・ばばあであったとしても、無垢な赤子の時と同じように、変わらず愛してくれるのです。

こんなありがたいことがありましょうか!

 

時に挫けたり、落ち込んだりしても、また前を向いて、光の世をめざし、歩いていきましょう。

 

 

お読みくださりありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ