ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”暴力性は人間の本質ではない”

 

「自分の生存が第一で、わたしが賛成し、ほかの条件も合えばあなたも生存してもよろしい」という考え方──全部ではないが、しかし大半の人間の考え方──は、集団にとっては有害だし、それどころか集団がくり返しおびやかされ、まもなく破壊されるかもしれない世界をつくり出している。なぜなら、あなたがたは、べつべつの身体だと考えているから、自分が自分自身のために創造する体験は、自分だけの体験だと思う。同時に、自分が他者について考え、行い、言うことは、自分自身には直接影響しないと信じている。その考え方のせいで、人間は考えられないような無慈悲な暴力をふるうことが可能になる。

 

でも、人間の行動のすべてが暴力的ではないし、人間すべてが暴力的でもありません。善も勇気も慈悲も共感も、人びとの心のなかにはあるんです。

 

もちろんそのとおりだし、その深い真実は人間の行動を通じてしばしばあらわれる。英雄的な行為や親切、共感、善は人類の歴史を通じて見られるし、現代でもいたるところではっきりと現れている。

 

すると、人間の性質のどちら側が勝利を収めるか、ってことですね。

 

違う!

違う!違う、千回も言うが、違うよ。

暴力性は「人間の性質」ではない。

サンマーク出版:「新しき啓示」より)

 

他人と自分はまったくの別もので、誰かに暴力をふるったり、暴言を吐いたり、中傷したりしても、傷つくのは相手だけで、自分は無傷である──と誰もが考えていることでしょう。そうでなかったら、いまの世界の有様の説明がつきません。わたしたちはすべて一体であると知っていれば、自分で自分の身体を殴ったりするような真似をする人はいないでしょう。

殺人や強姦などといった法に触れるような暴力まではしていなくても、「馬鹿野郎」「あんたなんか死んじまえ」くらいの暴言は、ネット上でもそこらじゅうにあふれていますし、言葉にせずとも、心のなかで(ばーか)(くそ野郎)と悪態をつくことはだれもが習慣のようにしてしまっているのではないでしょうか。

それなのに、神様は、暴力性は「人間の性質」ではない、と千回でも言う、というのです。

ちょっと信じがたいですよね。なぜ、人間は、日常的に本来の性質でもない行動をとってしまうのでしょうか。

 

現代の文化に暴力が深くしみこんでいるからだ。

人間が暴力を許している方法はいくらでもある。暴力的な映画やテレビ番組、ビデオゲーム、考えられるありとあらゆるかたちの暴力の表現の洪水──が人間の行動に影響を及ぼすと言えば、激しく否定するひとたちがいる。それなのに、一方では60秒のスーパーボウルの映像をCMに使うために、何百万ドルも支払う。

イメージが人間の行動に影響するのを充分に承知しているからだ。

(引用元:同上)

 

つまり、カバール、イルミナティーといった闇の一味の常套手段ですね。

そして神様は、マスメディアが発達するずっと以前から、生命/人生と神についての、人間の最も早い誤解から暴力についての問題が生まれた、と言っています。やがて組織的宗教が優秀性と排他性という教義をはびこらせ、報復と暴力を神の資質に仕立てあげ、人間が言うことを聞かないと激怒する神をひろめ、この、分離と無価値という幻想──生命のすべては本質的にばらばらで、人間は本来的に悪だという幻想──が、機能不全と暴力的行動の原因だと言うのです。

 

人間が暴力的に行動するのは、自分がひとりぼっちだと──究極的に孤立していると──信じ、悪の満ちみちた世界で自分を維持し、守り、擁護するためには何でもしなければならないと考えるからだ。(引用元:同上)

 

”すべての攻撃は助けを求める悲鳴なのだ”、とも神様は言っています。一見、暴力行為を平気でするようなひとは残忍で、愛のかけらも持ち合わせない、冷酷非道な悪魔のように感じられますが、実は、そういう人こそ、孤独で、不安で、いつも恐怖を感じているが、それを表面的にはひた隠しにし、自分より弱いものを攻撃し、いたぶることによって、やっと自分を保っているのかもしれません。生命のすべてがバラバラに分離していると感じ、神も仏も人間も誰ひとり信じられず、深い深い孤独の中に生きている人は、孤独とともに絶望の淵をさまよっているために、暴力行為の裏で、魂が助けてくれと悲鳴を上げている・・・・のかもしれません。

「こんな恐ろしい人間は死んでしまったほうが世のためだ」と誰もが思うくらいの残虐行為をした人間も、本質は、暴力性ではなく、やはり、愛なのだと──私は信じています。

 

あなたがたの精神には世界を自由にする智恵が、心には愛が、魂には真実が宿っている。

あなたがたのすべてが智恵であり、愛であり、真実だから、どの瞬間も癒しの瞬間になるだろう。(中略)

あなたがたの人生/生命のひとときを、あなたがた自身の最高の真実を示すため、真の愛を差し出すため、あなたや他者があなたがた自身に付けた傷を癒すために使いなさい。

(引用元:同上)

 

お読みくださりありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ