ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”あなたは、つねにわたしと「一体」である。いつでも、いつまでも歓迎される。お帰り、と。”

 

20年以上前、初めて「瞑想」というものに取り組んだ私は、自分の頭のなかのおしゃべりがあまりにうるさく、どんなに頑張ってみても黙らせることができなくて、もう、腹が立つやら、情けないやら。そのうち自己卑下が始まって、苦しくなってしまい、「こんな思いするくらいなら、もう瞑想なんか、やめたやめた!」と全く瞑想しなくなってしまいました。瞑想のための本も買ったし、CDも数枚買った、けれども、「無になる」という結果ばかりを追い求めていた私は、全然「無」に到達しない自分がほとほと嫌になってしまい、瞑想で霊的レベルを上げるのはあきらめ、前世療法のほうが手っとり早そうだ!(基本面倒くさがり)と、3回もヒプノセラピーを受けたものの、まったく前世が見えず、あえなく玉砕えーん

「プロに頼んでだめなら自力でやっちゃるわい!」と、ワイス博士の本を読んでは、CDを聞き、誘導瞑想を試みましたが、何度やっても駄目なんですよね・・・ショボーンあせる

リーディングも数回受けたし、その際に霊的なアドバイスももらいましたが・・・・。感銘を受けては、日常の忙しさに取り紛れ、すぐ忘れる!完全にスピリチュアル難民ですね。

 

いつまでも過去生を知ることにこだわってもしょーがないので、トラウマになっている過去生の出来事があまりにショッキングで恐ろしいので、自分で自分をブロックしているのだろお、などと勝手に結論付けています。

あくまで私の場合ですけど、結局のところ、

「自己の成長には、自分が(知らず知らずに)呼び起こした出来事による経験に、勝るものなし!」

という気がしています。

 

こんなふうに、スピリチュアル・コンプレックスもハンパなかった自分ですが、コロナ茶番デミックが始まってから、すごく真面目に瞑想するようになりました。正直言っていまだに、自我が消え去り、青い光が見え、第三の目が開き、神との一体感に恍惚とする──といった神秘体験的なことは起きておりませんがチューあせる・・・・それでも!それでも日々の瞑想による効果は絶大だ、と声を大にして明言いたします!

 

どんな効果があったかと言うと

 

①気持ちの立て直しができる

②愛・感謝の気持ちがハートからあふれ出す

③神、天使、ガイド、高次の存在、その他諸々から、とてつもなく愛されていることが実感できる

④日常のこまこました悩みや問題が、ちっぽけでどうでもいいことに思える

⑤自分自身に対するジャッジが緩和され、愛おしく思える

⑥自分の体や精神ともじっくり向き合える

⑦覚醒に向け、(一応)努力しているという安心感がある

⑧不安や恐怖がなくなる

 

おお!思いつくまま書いてみたけど、いいことづくめじゃないですか!

私の瞑想なんて、なんちゃって瞑想ですよ、ただ座って、You Tubeで瞑想音楽とか鳴らして、目をつむって、15分~20分、深い呼吸をしてるだけ。

雑念湧きまくるので、チャクラのクリーニングとかグラウンディングとかする場合もあるし(本からの引用)、ヴィジュアライゼーションとかを自分流にやったりとか。

いちばん大事なのは、雑念が湧くこと自体をジャッジしない!ということですあせるほっとけばいいんです。(あ~はいはい、またなんか言っているよ)みたいに。

だって、この雑念も自分なんだから、批判したりしたら、瞑想効果のおいしいところが台無しになってしまうじゃないですか。もったいないですよね笑い泣きあせる

 

 

毎日の瞑想は、最良の道具のひとつだ。瞑想によって、生命エネルギーを最高のチャクラに引き上げることができる──さらに、「目覚めた」ままで身体から離れることさえできる。

瞑想していると、身体が目覚めた状態のままで、全的な認識を経験する用意ができる。この準備ができている状態を「真の目覚め」と呼ぶ。だが、瞑想は単なる仕掛け、あなたが言う「道具(ツール)」にすぎない。真の目覚めを経験するには、座って瞑想しなければならないとは限らない。立って行う瞑想もある。歩く瞑想もある。行動する瞑想もある。セクシャルな瞑想もある。

瞑想とは「真の目覚め」の状態だ。

この状態で立ち止まるというのは、道なかばで足を止めること、どこかへ向かうのをやめること、何かをするのをやめること、立ち止まってその場に「いる」こと、ただその場で本来の自分でいることだ。

ほんの一瞬でも立ち止まることは、祝福に値する。まわりをゆっくりと見まわせば、通り過ぎるだけではわからなかったことに気づく。雨上がりの深々とした土の匂い。愛するひとの左耳にかかる巻き毛。遊ぶ子供たちを見る楽しさ。この状態を経験するのに、身体から離れる必要はない。これが、真の目覚めの状態だ。

この状態で歩いていれば、すべての花の香りを吸い、すべての鳥とともに羽ばたき、一歩ごとの足もとの感触を実感できる。美と智恵を発見する。智恵は、美がかたちづくられるところにある。美はすべての生命によってあらゆるところにかたちづくられている。探す必要はない。向こうからやってくる。

この状態で「行動」すれば、何をしてもそれが瞑想になり、あなたからあなたの魂への、そしてあなたの魂からすべてへの贈り物になり、捧げ物になる。皿を洗えば、手をひたす湯の温かさを楽しみ、湯と温かさの両方に感動する。コンピュータを使っていれば、指の動きに応じて目の前のモニターに現れる文字を見て、思い通りに動く心身の力にわくわくする。夕食のしたくをすれば、食べ物を与えてくれた宇宙の愛を感じ、お返しに自分の愛のありったけを食事にこめる。その食事がごちそうだろうと、質素だろうと、それはかまわない。缶詰のスープだって、愛によって美味になる。

(中略)

あなたは道具(ツール)を教えてくれと言う。だから教えてあげよう。呼吸しなさい。これも道具だ。長く、深く呼吸しなさい。ゆっくりと、おだやかに呼吸しなさい。生命という無を、満ちあふれるエネルギーを、満ちあふれる愛を静かに呼吸しなさい。あなたが呼吸しているのは、神の愛だ。深く呼吸しなさい。そうすれば感じられる。深く、深く呼吸しなさい。そうすれば、泣きたくなるほどの愛があふれ出す。うれしくて、泣きたくなる。神に出会うから。神があなたをあなたの魂に紹介してくれるから。

サンマーク出版:「神との対話③」より引用)

 

 

・・・・こうやって、神の言葉をタイピングしているだけで、感極まって涙が出てきます。もうこの本を何度読んだか知りませんが、瞑想をやるようになって、はっきり変わったことは、以前よりずっと、「愛を感じやすくなった」ことです。最近「神との対話」を読むたびに、以前は心に響かなかった、意味がつかめなかったメッセージが、「なんで今までわたしはこのことに気づかなかったんだろうか!」とか「こんなに広く深く神様に愛されていたなんてえーん(号泣)」とか、とにかく、ずっきゅんずっきゅん(笑)、「愛」がハートに響くようになりました。

 

飽きずに、心地よく、地道に続けられるなら、やり方にとらわれる必要はないし、結果に期待することも必要ありません。

まずは、寝る前に1分だけ深呼吸!とか、入浴中のスマホいじりをやめて、ぼーっとする、とか簡単なことから始めてみませんか。きっと世界が変わりますキラキラ

 

 

悟りに達すれば、あるいは、間欠的にでも経験すれば、世間のただなかにいても騒音は聞こえなくなり、気も散らなくなる。人生のすべてが瞑想になる。

人生のすべては瞑想であり、神性に思いをいたす場である。これが真の目覚めであり、覚醒だ。この経験をすれば、人生のすべてが祝福される。闘いも苦しみも不安もなくなる。ただ経験があるだけだ。そこに好きなだけレッテルを貼ればいい。すべてに完璧というレッテルを貼ることもできるだろう。

だから、人生を瞑想に、人生の出来事のすべてを瞑想にしなさい。眠りながらではなく、目覚めて歩きなさい。無意識にではなく意識して歩き、疑いや不安にわずらわされず、また罪悪感や自責にとらわれず、大いなる愛を与えられているという輝かしい確信をもちつづけなさい。

あなたは、つねにわたしと「一体」である。いつでも、いつまでも歓迎される。お帰り、と。

なぜなら、あなたのホームはわたしの心であり、わたしのホームはあなたの心だから。

(中略)

われわれは存在するすべてであり、存在したすべてであり、将来存在するするすべてであり、終わりのない世界である。

アーメン。

(引用元:同上)

 

 

お読みくださりありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ