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妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

「死とは何か⑬」”子供たちにとって死は、とても優しい”

以下、太字青字サンマーク出版「神へ帰る」より引用

「死とは何か」シリーズも、終わりが近づいてきました。

長々と死について語ってきた神様に対し、ニールさんは次のよう質問します。

 

 

子供たちの死はどうなんですか?子供たちもこれまで話してきたのと同じ体験をするんでしょうか?

 

 そう、非常に穏やかなやり方でね。

子供たちにとって死は、とても優しい。死んでゆくとき、その先に起こることについてさまざまな否定的な思いをいだいている子供はめったにいないからだ。

子供たちは純粋だ。霊的(スピリチュアル)な領域から来たばかりだ。まだ「存在の核心」からそう遠く離れていない。「エッセンス」から分かれて現れたばかりだ。だから幼い子供たちは死の最初の各段階をすみやかに通り過ぎ、ほとんど瞬時に「エッセンスとの合体」に戻っていく。

(中略)

「あの世」では子供たちは「成長する」と言うべきだろうね。つまり子供たちは起こっていることも「究極の現実」も充分に認識し、充分に意識している。自分がなぜ地上に来たのか、なぜそんなに早く地上を離れたのかも知っている。

どんなかたちであれ、選んだことを全部完了したと感じれば、子供たちは先へ進むだろう。完了したと感じなければ、ほかの魂と同じように「人生に戻る」機会を与えられる。

 

 

ある意味、子供たちは「あの世」から来てまだ数年しか物理的世界での生を過ごしていません。なので、世間の常識で頭がガチガチに洗脳されちゃった大人よりもずっと霊的だし、あの世の記憶も鮮明に残っているでしょうから、「こんなに早く死ぬなんて、さぞや無念だろう」「なんて可哀そうなんだ」「悲劇だ」などと、大人が子供の死について”憐憫”のレッテルを貼ることは、もしかしてちょっと見当違いなのかもしれません。

「死とは何か」①~⑫を読んで下さった方はお分かりでしょうが、死んでしまっても、霊的領域に進む前に、必ず「さっきまでいた物理的世界に戻りたいか?それとも霊的な領域に進むか?」と聞かれて、どちらか自由に選択することができるのですから、「無念の死」は存在しないということになります。

どんなに幼い子供の魂であっても、十分納得したうえで物理的世界を離れるのです。

※初めてブログを訪問して下さって、「読んでも意味わからん!」という方々は、ぜひ

「死とは何か①~⑫」を読んでくださいねニコニコ

 

では、生まれたばかりの赤ちゃんや乳児の死はどうなのでしょう?それについても神様はちゃんと説明してくれています。

 

 

身体に入ってからごく短期間に身体を離れた魂──生まれたときやごく幼いころに死んだ子供たち──は、必ずとても高いレベルでほかのひとの課題(アジェンダ)に仕えるためにそうしている。

すべての魂は個々の課題に役立たせるために物理的世界にやってくるが、その課題がじつは当人とはほとんど関係がなくて、すべてが他者の課題にかかわっていることがある。

たとえば神の化身や<マスター>として戻ってくる魂は、そのような者として自らを経験する喜びのために戻ってくるし、そのためのいちばん良い方法は、もっぱら他者の課題に仕えることだと知っている。

(中略)

場合によっては、彼らはそのためにすぐに地上から去らなければならない。だが、それはその魂にとって決して悲劇ではない。彼らは早々に立ち去ることに同意している。

(中略)

他者の課題(アジェンダ)に仕えるために身体に宿った魂はすべて天使だ──そして、ごく幼くして死んだ子供はすべて、他者に贈り物を与えるためにそうしている。

両親やそのほかの人びとは、その贈り物をすぐには理解できないかもしれない。当然ながら、深い悲しみに沈んでいるからね。

だが約束するが、時がたって癒されれば、その贈り物が見えてくるし、受けとれるし──天使としか形容しようのない──いとし子の仕事は完成するだろう。

 

 

わが子に先立たれることほど、辛い、壮絶な深い悲しみはないでしょう。神様は私たちに

「子供の死を悲しむべきではない」とは言っていません。けれど、もし、可愛いわが子が、両親の課題のために、喜んで物理的世界を後にしたのだとしたら──そして、そのことを、事前にあの世の霊的領域で一緒になって計画していたのだとしたら──そして、親が、辛い子供の死の悲しみを乗り越え、今生を精いっぱい生き切り、あの世で先立たれたわが子に再会できると疑いもなく「知って」いたら──。

課題を乗り切る年月も、辛く、苦しく、悲しいだけでなく、その人生に希望と喜びが少しずつ増えてゆくかもしれません。

 

私のダンナは、小学生(6年生かな)のとき、可愛がっていた幼い妹を交通事故で亡くしています。しかも、その事故現場の近くにいて、事のなりゆきを目撃してしまったのです。

この時の話は、付き合い始めた頃1度だけ聞きましたが、それ以来まったく話題に上ることはありません。まあ、40年以上前の事ですし、ダンナの今の日常生活のなかでは思い出すことも少ないのかもしれませんが、その当時、ダンナがどれだけの衝撃を受けたであろうかは、簡単に言葉にできないし、想像もできません。ダンナも義両親も、事故からの数年は、壮絶な辛い日々を過ごしたに違いなく、それを軽々しく論じることはできませんが、いずれにしても、ダンナは「妹の死」を通して、何らかの課題を乗り越えることとなったのだと思います。ものすごく優しく、強く、動じない性格であり、私のような未熟な人間の「師」のような存在であり、「無条件の愛」を言葉でなく生きざまで見せてくれている彼をかたちづくったもののひとつに、「妹の死」があるのかもしれないし、それがなかったらダンナの人生が変わっていて、私と会うこともなかったかもしれません。そう考えると、私は会ったこともないダンナの妹さんに対し、言いようのない感謝の気持ちと愛情がふつふつとわいてきます。

 

「Yちゃん、本当にありがとう。いつかあの世で会ったら直接お礼を言わせてね。あなたのお兄ちゃんのおかげで、私は人生がものすごく豊かになったし、本当に幸せだよおねがい

 

ダンナの妹、Yちゃんに、私の思い届きますように。

 

 

お読みくださりありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ