「死とは何か①」で取り上げた神様のメッセージに対し、ニールさんは誰でも疑問に思うことを神様に尋ねます。
※以下太字・青字:サンマーク出版「神へ帰る」より引用
今回の対話で、誰でもみんな自分で自分の死を引き起こすのだと初めて聞いたとき、わたしがすぐに思ったのは、もしそれがほんとうなら、死はすべて自殺になるんじゃないかってことでした。
(中略)
死が自殺であるためには二つの条件が必要だ。
①自分が何をしようとしているのかを認識していること。つまり、意識的に死を選択すること。
②人生を完了させるためではなく、そこからのがれるために死を選択すること。
この対話の目的のひとつは、あなたがたに肉体的な生命の神性さをわからせること、身体に宿る生命が言葉にならないほどの贈り物であると理解させることだ。
以前、死は力強い創造のときだと言ったが、そのとおりなのだよ。しかし、それはあることを「するため」のものであって、あることから「逃げるため」のものではない。
(中略)
自殺に関係するみんなの気持ちを楽にしてあげることはできるんでしょうか?
自殺した人はだいじょうぶだ、オーケーだとわかれば、気持ちが楽になるだろうね。そのひとたちも神に愛されていて、決して見放されることはない。ただ、達成しようとしたことができないだけだ。
(中略)
悲しいことに、自分の人生に終止符を打つひとたちは、これでものごとが変わると想像しているが、じつはそうではないのだよ。
何かから逃れるために人生を終わらせても、何からも逃れられはしない。
状況を変えるために自らの死を選択したというのに、状況がまったく変わらないなんて、どういうことなのでしょうか。神様は、自殺する人は、自身の経験がつらいとか困難だから虚空に逃れようとするが、虚空など宇宙のどこにも存在しない、と言います。
なぜなら、生きているときも死んでからも、自分自身の創造物に満たされているからなのだそう。
三次元の世界では時間が存在するので、自分が創造したとはとても思えない状況もあるかもしれませんが、じつは自分の思考・言動・在り方によって、自らが創造した事象が、今、自分を取り囲んでいる、というわけです。
確かに人生には、楽しい状況もあれば辛い状況もあります。誰だって辛い時は、その場から逃げ出したい!と思いますよね。しかし、死でもって逃げる、ということは、そんなにいけないことなのでしょうか?
前に、死はすばらしいことだとおっしゃいましたよね。死がほんとうにすばらしいのなら、どうしてつらい人生を終わらせようと思っちゃいけないんですか?
あなたが「死」と呼ぶことはすばらしいが、しかし「生命/人生」以上にすばらしいわけではない。それどころか、「死」とは、違うやり方で続く、生命/人生なんだよ。
このことはとくにはっきりさせておきたい。あなたは死のあちら側で自分自身と、それにこの世にいたときにたずさえていたすべてと出会うだろう。それからもっとも皮肉なことを実行する。
ひとは、一番最近の人生で取り組まなかったことに取り組むために、自分にふたたび肉体的な生命/人生を与えるのだよ。
なんと、いまの人生で取り組まず、やり残したことを、つぎの人生でまたトライすることになる・・・というのなら、何か嫌なことが起きたとき、そこから逃げようとするより、「これも自分に課したチャレンジ!」と腹をくくって、対峙したほうが、来世はぐっと楽になる?!ってことでしょうかね。確かに、自分のなかのネガティブな面を放置していると、これでもか、これでもかってくらい、宇宙が似たような状況を与えてきます。っていうか、その状況を創り出しているのはまぎれもない自分自身でしょうけれど
どうせなら、今生で計画した達成レベルはクリアしておきたいものです。
ニールさんは、人生でやり残したことがあっても、死後、非物質的な霊的な領域(あの世)にいつづけるわけにはいかないのか?と、神様に問います。
いや、そうはいかない。あなたはどんな経験をするかを霊的な領域で選択する。その選択したことを経験する場を提供するのが、肉体的な生命/人生の目的だから。
だから、肉体的な生命/人生を離れても何からものがれられず、また肉体的な生命/人生に、つまり、のがれようとした状況に戻ってくるだけだ──ただし、戻ってきたらまた一からやり直すことになる。
これを「罰」とか「要求」「重荷」と考えることはないよ。あなたは、それが自己創造のプロセスの一環だとわかって、自由意思でそうするのだ。それに、あなたは自己創造のために存在しているのだからね。
いや~罰とは思わないにしろ、また一から死にたいほどつらい体験をするなんて、ごめんですよね!
そんな体験は誰だって1回きりにしたいものです。かといって、実際に意識的に死ぬことを選択してしまった人たちの苦しみははかり知れないほどであり、当人たちだって回避したかったに決まっているはず。でも死を選んでしまったというのは、もう限界に達していたからにほかなりません。その絶望の淵から一筋の光を見いだすには一体どうすればいいのでしょうか。
もういやだ、現在の課題とぶつかりたくないと人が感じるのは、自分がたったひとりで取り組まなくてはならないと思うからだ。これは誤解なのだが、多くのひとがそう思っている。
孤独はいまの世界における最大の苦しみだね。
感情的、物理的、霊的な孤独──ひとりぼっちで、傷つき、重荷を背負っていて、それを誰も理解してくれないし、頼るべき何の力もない、と感じること──は確実に絶望を生む。
終わりのない絶望に直面していると、ついには逃げることしか考えられなくなる。だが、逃げることはできない。避けたいと思っていたことを、はじめからくり返すだけだ。
だからこそわたしはここで、あなたがたには頼る力があると言うのだし、あなたもそのことを世界中の人に伝えてほしい。
わたしがそばにいることを絶対的に知るためには、わたしに呼びかけさえすればいい。
絶対的な信頼をもって手を差しのべさえすれば、わたしは手を差しのべてあげる。
この神様の言葉に、ニールさんはくってかかります。
ほんとうにこのうえなく慈悲深い神なら、わざわざお願いしなくても助けてくれたっていいでしょう?
「さんざん神に助けを乞い願ったのに、助けてもらえなかった、だから絶望しているんだ!わたしは見放された、もう耐えられない!」と叫ぶ人には何と言うんですか?と。
いま重要なのは、いま、たったいま、あなたの前に答えがあるかもしれない可能性について考えることだ。目を開けば、見えるだろう。理性を開けば、わかるだろう。心を開けば、答えがあると感じるだろう。
それでは言おう──。
絶対的に知って、わたしに呼びかけるときにだけ、あなたは答えが与えられていることに気づくだろう。なぜなら、「あなた」が知って、「あなた」が感じて、「あなた」が宣言すること、それだけがあなたの真の経験になるから。絶望のうちにわたしに呼びかけても、わたしはそこにいるが、しかし絶望があなたの目をくらませ、見えなくするだろう。
それでは言おう──。
あなたが何をしようが、どんなことを引き起こそうが、取り返しがつかず、癒されることも不可能なほど恐ろしいことはありえない。わたしはあなたをふたたび完全にすることができるし、また、そうする。
しかし、あなたは自分自身を批判することをやめなくてはいけない。いちばん強力な批判をするのはあなた自身だ。
(中略)
たったいま、このわたしが驚嘆と真実のなかであなたを見ていること、あなたを完璧だと見ていることを知りなさい。あなたを見るわたしには、たったひとつの思いしかない。
「これが私の愛する者、わたしがおおいに喜びとする者だ」
それでは言おう──。
「神の王国」に赦しは必要ない。(中略)
大事なのはあなたがたのアイデンティティ、あなたがたは何者かということだ。
あなたがたは真の自分を知っているだろうか?知っていれば、孤独な絶望も、自分はとるに足りないという思いもすべて消えうせ、絶望はあなたがたの人生/生命という奇跡に対する驚異の認識に変わるだろう。そしてあなたがたという奇跡の認識に。
そこで、最後に言おう──。
あなたがたはいまこの瞬間、10万の天使に囲まれている。
さあ、その天使たちの援助を受け入れなさい。それから天使たちの贈り物をほかのひとに渡しなさい。
与えることで受けとることができ、癒すことで癒されるのだから。
あなたが待つ奇跡は、ずっとあなたを待っている。あなた自身がほかのひとの待つ奇跡になったとき、それがわかるだろう。
さあ、行ってあなたの奇跡を実行し、あなたの死が最大の悲しみを言明するときではなく、最大の栄光のときとなるようにしなさい。
死を破壊ではなく創造のためのツールに、後退ではなく前進のためのツールにしなさい。
魂は、この人生でやり遂げようと計画したことにわたしたちを引き戻そう、引き戻そうと、いつでも、どこでも、援助の手を差しのべています。けれど、わたしたちがその可能性から背をそむけていたり、必死過ぎてエゴがむき出しになり、差し出されたランプの灯りや助言が受け取れない状態だったりするせいで、より孤独を深めてしまうのです。
私は、この
あなたがたはいまこの瞬間、10万の天使に囲まれている
というフレーズが大好きで、辛いとき、悲しいとき、失意のどん底にあるとき、いつもこのフレーズを思い出すのです。そして、10万人の天使たちが、自分を取り囲んでいて、私の肩を優しく包み込み、抱きしめてくれると想像します。
もう、それだけで、それだけでですよ、号泣です!そして、こんなに私は愛されているのだ、何も悲しいことなんかあろうはずがない、と瞬時に思えます。
世界中で、まさに今、絶望の淵に立たされている人がごまんといると思います。
どうかそのひとたちに、今日のメッセージが届きますように。
お読みくださりありがとうございます。
すべてに感謝