ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”存在するすべて、存在したすべて、これから存在するすべては、わたしである”

わが家には、2匹の犬と5匹の猫がいる。全頭、保護犬・猫である。2匹の犬は、私達家族が保護した、というよりも、「雨露をしのぐことができ、黙っていてもご飯が出てくる、安住の地」として、犬側が、わが家を一方的に選んだ、と言ったほうが正解だ。

犬を飼う気は毛頭なかった私とダンナだったが、「もう、ここに住むから、あとはよろしく!」と居座られてしまって、追い出すわけにもいかず、高床の家の軒下に住まわせている。

猫たち5匹は、それぞれ時期はばらばらだが、まだかよわい幼猫である彼らを、厳しい危険な環境下に放っておけず、私、ダンナ、息子が保護したもの。

残念なことに5匹の仲はあまりよろしくないが、下僕(ダンナ)の献身的な奉仕のもとで、それなりに幸せに暮らしてくれている・・・と勝手に思っている。

 

この猫たちに対し、奉仕しなければならない下僕の役割は様々だが、そのなかに「お膝タイム」なるものがある。5匹中、人間の膝に執拗に乗りたがる猫は、長毛オスのミミタ(別名おひざくん)で、今まで12匹の猫と関わってきたが、これほど人間の膝に執着する猫は初めてだ。彼にとっては、どんなに寝心地の良いクッションよりも、人間の膝に勝るものなし、なのである。

(ちなみに、私やダンナが大好きだから乗りたがる、というわけでは決してなく、自分に危害を加える心配のない、安全な人間であれば誰でもいい、ということは、うちに遊びに来たお客さんや実家の両親などで、すでに証明されている。)

お膝タイムは、このミミタのほかにも、末っ子のアンコちゃんを乗せる時間も含まれるが、割合で言ったらミミタ80%、アンコちゃん20%といったところか。

 

このミミタに加え、特別な奉仕が必要な猫は、母親の愛情を知らない(と思われる)巨体のキナコ(オス)である。彼は、図体の大きさに似合わず大変な甘えん坊で、人間の上半身に顔をうずめ、衣服をちゅぱちゅぱ吸いながらモミモミするのが大好きで、これを拒み続けていると、ストレスで他の猫たちに嫌がらせをする、という困った悪癖がある。ちゅぱちゅぱされると、シャツはよだれでべとべとになり、尖った爪でモミモミされて衣服と腹には穴が開くが、下僕は猫の要求を断わることは一切許されないので、黙って耐えるしかないのである。

 

ダンナは正真正銘、立派な猫の下僕なのだが、私は下僕としては永遠に見習いで、というのは自分から進んで見習いに甘んじているからであり、身も心も猫に捧げているダンナと違い、猫たちに邪魔されたくない自分の時間を、きっちり確保している。

けれども、マスターを目指すと公言した人間が、ほぼ自宅に籠っているくせに、多忙なダンナに猫への奉仕活動を押し付け、自分の都合のいいときだけかまってやる、というのは、いかがなものか?と反省し、以前よりは、奉仕時間を延長した──ものの、その際中は大概タブレットをいじくり、心ここにあらず状態で接していた。

が、しかし──

 

 

見えるものも、見えないものも、存在するすべて、存在したすべて、これから存在するすべては、わたしである。すべてがわたし、わたしのいまである。

サンマーク出版:「神とひとつになること」より引用)

 

 

ということは、犬も猫も、「神」なのだ。膝にのせろとミミタに執拗にせがまれたときに断ることは、神が、こともあろうに私なんぞの膝に乗りたがるのを、「今忙しくって、ごめんねえ」と、あからさまに拒絶したこととなり、ちゅぱちゅぱさせろと迫ってきたキナコに「やだよ~服がびちゃびちゃになるから汗」と逃げまわることは、神が、こともあろうに、私なんぞの上半身に顔をうずめて服を吸いたがるのを拒んだことになる!?のか滝汗

 

 

エスは、わたしが右手にいる者にこう言うはずだと語った。祝福された子供たちよ、こちらへ来なさい。あなたがたのために用意しておいた王国を受け継ぐがいい。

あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせてくれた。渇いているときに飲ませてくれた。宿無しだったときに、住まいを与えてくれた。

わたしが裸だったときに、着せてくれた。わたしが病気のときに、見舞ってくれた。わたしが牢獄にあるとき慰めてくれた。

すると、彼らは私にたずねるだろう。神よ、いつ、あなたが空腹であるのを見て、食べさして差し上げましたか?いつ、あなたが渇いているのを見て、飲ませて差し上げたのでしょうか?いつ、あなたが宿無しであるのを見て、住まいを与えたでしょう?いつ、裸であるのを見て、衣服をお着せしましたか?いつ、あなたが病気であるのを、あるいは監獄にあるのを見て、お慰めしたでしょうか──?

そうしたら、わたしは答える。

まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う──わたしのきょうだいのなかの、最も小さい者のひとりにあなたがたがしたことは、わたしにしたことなのである。

これが、わたしの真実であり、それは永遠に変わらない。

(「神との対話②」より引用)

 

 

いくら、存在する何もかもが神様だと言っても、自分を犠牲にまでして献身的に尽くすべし、というのではない。何もかもが神様なら、自分だって当然神様なのであるから、自分自身を大切に扱うことも、とても大事なことだ。けれども、今まで、猫は猫であり、犬は犬であるとしか認識していなかった存在が、実は、

 

わたしのきょうだいのなかの、最も小さい者のひとり

 

なのだとしたら──当然見る目も変わってくる。ミミタを膝に乗せる時間も、キナコにちゅぱちゅぱさせる時間も、神様の一部と過ごす貴重な時間と思えば、喜び・愛・感謝の意を互いに通わすひとときとして、今まで以上に心を込めて撫でてやったり、大好きだよ、と積極的に伝えたりする気にもなるというものだ。

 

驚いたことに──これを真剣に実践すると、私が一方的に与えた気になっていた愛情が、胸の奥底から溢れんばかりに身体を駆け巡り、時に涙が出てくるほどの深い、厚い、温かい感情がこみ上げて、言葉にならない至福を感じる、ということが判明した。

そうか、わたしたちはすべて一体なのだから、他者に与えているということは自分に与えていることになるわけで、こんな素晴らしい体験ができるのならば、タブレットを見ながらいい加減に相手をするのはきっぱり止め・・・・できるだけ止めよう、と心に誓った私なのだった。

 

キナコ(左)とミミタ(右)  

 

お読みくださり、ありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ