ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

「死とは何か①」”あなたの死を引き起こすのは、あなた自身だ”

 

サンマーク出版:「神へ帰る」(ニール・ドナルド・ウォルシュ著) は、まるごと1冊、「死」について書かれています。多くの人間にとって、「死」とは、忌むべきこと、不幸、不吉、悲劇、不可解、触れてはいけない話題・・・・といったネガティブなものでしかなく、ましてや喜び、祝福すべきすばらしい体験、などと思っている人はほとんどいないでしょう。

しかしこの本は、私たちの持っている「死」の概念を根本から覆すような、驚くべき内容が綴られています。

 

以下太字青字:サンマーク出版「神へ帰る」より引用

 

 

●思い出すこと──その1

死とは、あなたが自分のためにすることである。

 

おもしろいことをおっしゃる。だって、自分の死が誰かほかのひとのためにすることだなんて思えませんからね。それどころか、死が自分の行為だなんて思えないなあ。死って、自分の行為じゃなくて自分に起こることではありませんか。

 

そう、あなたに起こることだ。そして、あなたを通じて起こることでもある。

「あなたに」起こることはすべて、「あなたを通じて」起こる。そして「あなたを通じて」起こることはすべて、「あなたのために」起こる。

(中略)

死とは、あなたがあなたのためにすることだ。なぜなら、死はすばらしいことだから。そして、あなたは「目的」をもってそうする。

(中略)

だから誰かが死んでも悲嘆にくれる必要はないし、自分の死を悲しみや不安のうちに迎えることもない。

生命/人生を歓迎するように、死を歓迎しなさい。「死」とはべつのかたちの生命なのだから。

ひとの死を穏やかな祝意と深い幸福をもって歓迎しなさい。死はすばらしい喜びだから。

死を──自分の死も他人の死も──安らかに経験するには、つぎのことを知っていればいい。死ぬひとはつねに自分でそうしている、ということだ。

そして、これが──。

 

●思い出すこと──その2

あなたの死を引き起こすのは、あなた自身だ。

いつ、どこで、どんなふうに死ぬのであっても、これが真実だ。

 

 

病気で死ぬにしろ事故で死ぬにしろ、死の原因となったことは、自分のあずかり知らないところから降ってきた災難、として捉える人が多いことでしょう。しかし、実は自分で「死」を引き起こし、しかも、自分のために何かしらの目的をもって死ぬ、と言うのだから驚きです。

 

 

死は道具(ツール)だ。本来の目的どおりに活用すれば、死はじつに並はずれた何かを創造することができる。

(中略)

 

道具って、何かの目的のためにあるものでしょう?何かのために使われる、それが道具です。でも、わたしは死にたくなんかないですよ。誰も死にたくないと思うな。

 

誰でも死にたいのだよ。

 

えっ。誰でも死にたい、ですって?

 

もちろん。そうでなければ誰も死なない。死があなたの意志に反して起こることだと思うかね?

(中略)

●思い出すこと──その3

あなたは自分の意志に反して死ぬことはない。

 

 

まさかそんなことがあるかいな!と思う人がほとんどでしょう。

だって、自分の意志で死ぬのなら、なぜ人間は自分に降りかかってくる「死」に抵抗し、もがき苦しむのでしょうか。

 

 

自分が起こってほしくないことが起こっていると「想像すること」は可能だよ。だが、実際はそうではない。そんなふうに想像すれば自分を犠牲者だと思える、それだけのことだ。

しかし、そんな考えほど、あなたの進化を遅らせるものはない。犠牲者だと思うのは、視野が限られている証拠だ。真の犠牲などありえないのだから。

 

 

私達人類は、目をつむって人生を歩いているようなものですねzzz

自分に起きることは全て自分で呼び寄せているとはつゆ知らず、誰かの、何かのせいにしては、

「なぜ自分はこんな目に遭うのか!」と怒り、嘆き、苦しむのが当たり前な世界を、ずっとずっと、長いこと、夢遊病者のように繰り返し繰り返し生きてきました。もちろん、それも壮大な計画があってのことでしょう。

でも、もうそろそろ、「本当の自分」を思い出す絶好のタイミングが、ここ地球に訪れているのではないでしょうか。

 

けれども、本当の自分を思い出したからといって、新しい死の概念を他人に押しつけてはいけません。

 

 

霊的(スピリチュアル)な決まり文句や知的探究心を、そのひとたちの苦しみを癒す薬として差し出してはいけない。まず痛みを癒し、それからその痛みを創り出した思考を癒すことだ。

もちろん、ふつうの人間的な感覚からいえば、恐ろしい出来事や環境の「犠牲者」はたしかに存在するよ。だがそのような犠牲という経験が現実として存在するのは、ふつうの──したがって、きわめて限られた──人間的な文脈のなかだけなのだ。

真の犠牲などありえないと言う場合、認識のレベルがまったく違う。しかし、いったん痛みが癒されれば、ひとはそのレベルの認識に到達することができる。

 

 

死について理解を深めることは、わたしたちの認識のレベルを上げ、いまのような混沌とした世界のなかでも不安や恐怖を抱くことなく、愛と光をたずさえて悠々と生きることが可能になるのではないでしょうか。

 

また次回も「神へ帰る」から引用してブログをつづる予定です。

(テーマが深いので、ちゃんと完結できるかわかりませんが・・・・あせる

実は、何度も書きかけて中断していました。まあ始めてしまったらやるしかないですね。

気になる方は、サンマーク出版「神へ帰る」をぜひお読みください!)

 

引き続き来訪してくださると嬉しいです。

 

 

お読みくださりありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ