ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

「死とは何か②」”あなたは人生のすべての状況を創り出している”

前回の記事「死とは何か①」の続きです。

 

 

※以下太字青字サンマーク出版「神へ帰る」より引用

 

前回の記事では、

 

1:死とは、あなたが自分のためにすることである

2:あなたの死を引き起こすのは、あなた自身だ

3:あなたは自分の意志に反して死ぬことはない

 

という神様からのメッセージについて掲載、記事にしました。

ここで疑問が生じます。上記の3つを認識して、充分納得した上で死んでいく人は、果たしてどれだけいるのでしょうか。

大方のひとは、病気で余命宣告された場合、その病気にかかったことを、自分のためだとか、自分が引き起こしただとか、自分の意志だなんて、到底思えないのではないでしょうか。

それについては、神様は次のように説明しています。

 

 

魂は超意識のレベルではこの生涯は完了したと知っているが、潜在意識や意識のレベルではそれに「気づいて」いないかもしれない。

(中略)

「潜在意識」の段階とは、あなたが自分の現実を知らず、意識的に創造もしていない経験の場だ。「潜在意識」で創造しているときは、自分が何をしているかにほとんど気づいていないし、まして、なぜそうしているかもわからない。

べつに「悪い」レベルの経験ではないから、批判しないように。これは贈り物だ。なぜなら、この段階ではものごとが自動的だから。

(中略)

たとえば髪の毛が伸びる、まばたきをする、心臓が鼓動するというのは自動的な働きの例だね。

(中略)

「潜在意識」では問題を瞬時に解決する。入ってきたデータをチェックし、記憶装置を探して無数の状況に応じた迅速な対応を引き出すのだが、それもやはり自動的に行われる。熱い鍋にさわったとき、手をひっこめなければならないと考えたりはしないね。あっと思ったらもう、手を引っこめている。

これが「事前のデータにもとづいた自動的な対応」だ。

「潜在意識」はあなたの生命を救う場合がある。しかし人生のどの部分を自動的に創造することを選んだかに気づかないと、自分はものごとの原因ではなくて「結果」だと思うかもしれない。自分を犠牲者だとすら考えるかもしれない。だから、何を意識しないという選択をしたか、それを認識することが重要だ。

 

 

潜在意識って、普段は特別意識していませんが、私たちの身体のシステムを維持してくれたり、いちいち考える前に身の危険から守ってくれたり、ものすごくありがたいものなんですね。しかし、逆に考えると、自動的に動いてくれる心臓のことや、体中に巡り巡って栄養や酸素を運んでくれる血液のことを、一切意識することも感謝することもなく、暴飲暴食、ストレスフルな毎日、ネガティブな言動、運動不足などの生活を続けていると、突然心臓発作や脳卒中などで倒れたって何の不思議もありません。

それはまぎれもなく、自分の心身の機能を正常に働かせる、ということを一切意識してこなかった結果ですよね。

 

 

二つめの「意識」のレベル/段階は、何をしているかをある程度は認識して、自分の現実を知り、創造している経験の場だ。どの程度まで認識しているかは、「意識のレベル/段階」による。これが物理的なレベルだね。

霊的(スピリチュアル)な道で努力しているとき、あなたはつねに「意識を引き上げ」ようとする。物理的な現実の経験をもっと広げて、ほかのレベルで知っている自分の真実をそこに取り入れ、包み込もうとして生きている。

 

 

大方の人間は、この「意識」のレベルで日常を生きているのではないでしょうか。

よく、意識が低い、とか高い、とか言いますが、霊的なことに関心をもったり、自分の内面を熱心に探求したり、他人に奉仕することに喜びを感じる人たちは、意識を高めていると言える一方、他人をおとしめることで自分を引き上げようとしたり、快楽にふけって嫌なことを見ないようにしたり、自己否定にはまってしまっている人などは、意識が低い状態と言えるでしょう。

しかし、これは意識が高いから良い(正しい)、低いから悪い(間違っている)と、単純に決めつけることではありません。

くり返し神様は言っていますが、二元性においては、対極となるものが存在しないと、自らを思い出し再創造するという経験ができないので、究極の現実では全てが祝福すべきものであるのです。

 

 

三つめの「超意識」のレベル/段階は、何をしているのかを充分に認識して、自分の現実を知り、創造する経験の場だ。これが「魂」のレベルだね。あなたがたのほとんどは、「意識」のレベル/段階では「超意識」の意図に気づいていない──気づいている場合は別だが。

「超意識」とは、大きな魂の課題(アジェンダ)をかかえている部分だ──あなたが経験し、感じるために身体に宿ったことを「完了」しようとする。「超意識」は、つねにあなたをつぎの最も望ましい成長の経験へと導き、まさにそうであるべき正しく完璧な人びとや場所や出来事へと引き寄せて、知ることと経験とを組み合わせて感情を生み出せるように──真の自分についての認識を創造できるように──しむけようとしている。

 

 

・・・・なんだか、ここまで入力してたら、ありがたすぎて、泣けてきてしまいました。あせるえーんあせる

私たち人間の多くは、魂のことなぞ考えたことも、意識すらしたこともなく、物質世界で生きてきましたが、魂(神様の一部)は、つねに私たちを成長させるべく完璧な状況をこしらえて差し出してくれ、私たちが三次元という、なかなかどうして厳しい世界のなかで、最高の愛の感情(神性)を思い出し、味わい、体験できるよう、無視されようが放っておかれようが、いつもいつも宿主を誘い、呼びかけ続けているのです。

 

そして、この、「潜在意識」・「意識」・「超意識」のほかにもう一つ、「超絶意識」というものが存在します。

 

 

(超絶意識のことを)「キリストの意識」と呼ぶひとも、「高次の意識」と呼ぶひともいる。

あなたがたはみな、その場所に行くことができる。瞑想によって行くひとも、深い祈りによって行くひともいるし、儀式やダンスや聖なる祝祭によって行くひともいる──それから、あなたがたが「死」と呼ぶプロセスを通じて行くひともいるのだよ。

そこに到達する道はたくさんある。そしてそこに到達すれば、究極に創造的になる。意識の三つのレベル/段階がひとつになる。「すべてが足し合わされた」と言ってもいいが、じつはそれ以上だ。

なぜなら、あらゆるものがそうだが、そこでは全体は部分の総和よりも大きいから。

「超絶意識」とは、単に潜在意識と意識と超意識が混ざり合ったものではない。すべてが混ぜ合わされ、さらにそれが超えられた時に起こる。そのとき、あなたは純粋な「存在」になる。この「存在」はあなたのなかの創造の究極の源(ソース)だ。

 

 

この、「超絶意識」に行くことは、そう簡単ではないかもしれません。けれど、不可能ではないし、生きている間は体験できなくても、死後体験することはずっと容易になるでしょう。

どちらにせよ、この、意識のレベル/段階を理解しておくことは、「死」とは自分の意に反して降りかかってきた災難ではないのだ、という理解につながります。

 

 

いつも意識を引き上げているひとにとっては、成果や結果はつねに意識的に意図されたもので、決して意外なものではない。経験がどれほど予想外かをみれば、その経験を知覚している意識のレベルが直接的にわかる。

<マスター>をめざして学んでいる者は、たとえその経験が好ましく「見えない」としても、いつも自分の経験に同意する。自分がどこかのレベルでそれを意図しているはずだと知っているからだ。それを「知っている」から、ほかのひとにとっては大きなストレスになる環境にいても、完全に安らいで「落ちついて」いられる。

<マスター>をめざす学習者は、どの意識レベル/段階でその経験を意図したのか必ずしもわかっていないかもしれない。だが、どこかのレベルでは自分が責任を担っていることを疑わない。それを知っていることこそ、<マスター>への道を歩いている証なのだ。

(中略)人間の魂に影響を及ぼす決定はすべて、三つの意識のレベル/段階のいずれかで、あるいは第四の超絶意識のレベルで、その魂自身によって行われている。

(中略)

あなたは人生のすべての状況を創り出している。意識のレベルで創造しているなら、自分で気づくだろう。潜在意識や超意識のレベルで創造しているなら、気づかないかもしれない。それでも、自分で状況を創り出しているのだ。

 

 

つまり、自分の、他人の、「死」という経験すら、4つの意識のレベル/段階のいずれかで創造しているということです。他人の死については、自分は関与していない、と思われるかもしれませんが、究極的に私たちはすべて一体であるので、共同でその現実を創造していることになります。それは、他人の死を望んでいるからそれが現実化した、ということではなく、死にゆく人本人、その死に直面する周囲の人、あるいはニュースや人づてに見知らぬ人の訃報を耳にしただけであったとしても、その全ての人が、たった一人の人間の死に大なり小なり関わりをもっている、ということです。(これについては、また後日深く掘り下げて記事にする予定です)

 

(↓ここからはプライベートな私の体験告白なので、お時間のある方はどうかお読みくださいあせる

私はマスターを目指している最中です。発展途上ですニコニコ

なので、何が起きても一瞬の動揺もなく平常心を保ち、笑っていられるか、と言うと、まだそこまでのレベルには達してはいませんが、自分のなかの神の一部である魂にアクセスして、平穏を取り戻すのにかかる時間は、かなり短縮されてきています。(要するに、意識的に魂とつながろうとしてからでないと、超意識で体験を創造できないってことねあせる

 

先日、私の二男と三男が、わざわざ二人の日程を合わせて帰省することになっていました。

もう3人息子たちは自立して家を出て内地で暮らしておりますので、おいそれと会うことができず、コロナ茶番デミックが始まってからは一度も会っていませんでした。

 

私は、息子の帰省が決まってからしばらくは、(いつ、デクラスが起きたり、戒厳令らしきものが布かれたり、10日間の闇?だかなんだかがあるやもしれぬ。過度の期待は禁物)と、帰省が中止になったときの落胆を少しでも減らすために、自衛策をとってきたのですが、帰省の2週間前くらいからは、「発表とやらもまだなさそうな感じだし、いけそうだ!」と、自分にウキウキワクワクすることを許し、ろくなものを食べていない息子たちに何を食べさせようか、とか、二人にプレゼントするものは何がいいかしら、とか、滞在中に寝巻がわりにできるTシャツを買ってきたり、とか、一緒にこれしよう、あれもしようと、妄想を思いっきりふくらましておったのでございます。

 

ところが!ところがですよ、DSが仕組んだのかどうかはわかりませんが、超ゆっくりの台風6号が沖縄近海で発生し、なんと、飛行機は連日欠航、欠航となり・・・・。(私の感覚では、飛行機が欠航になるほどの台風だったのは、せいぜい1~2日だったと思います。何か、作戦があったのか、悪巧みがあったのかはうかがい知れませんがガーン

 

結局三男は何度か予約を変更したものの、あまりに長びく欠航のため帰省できず、二男は当初の日程の半分、二泊三日の滞在となってしまいました。

べそをかきましたよ、わたしゃ、いい年こいてしょぼん

私は、息子たちが幼少期のころは、子育てが大変過ぎて、我が子を愛おしいと思うよりも、うっとおしいと思ってしまう年月を送ってきてしまい、そのさなかは、そう思ってしまう自分が辛くて悲しくて、本当に苦しかったので、頭のなかが擬音語だらけの理解不能の男の子だった三人が成長し、話が通じる立派な大人になってくれてからは、幼少期に感じることができなかった分も、息子たちが愛おしくて可愛くてしょうがなく・・・・。

と、思えるようになった途端に、三人とも次々独立して家を出てしまったので、なかなか母の愛を面と向かって注ぐ機会がないのですよ、残念ながら。

そんな中での息子たちの帰省がパーになりそうで、あまりの落胆に耐えられず、半泣き状態で瞑想しました。

 

今日の記事のなかに書かれている神様のメッセージも、もちろん知っていましたので、がっかり度レベル1~6くらいなら今までも経験を積んでマスターできていました。しかし、今回のがっかり度はレベル8くらい?といったところで、しかも、この先沖縄は枠パスがないと飛行機に乗れなくなる可能性もあり、次に息子たちに会えるのは果たしていつになることやら・・・・と

想像するだけで、悲しくて悲しくて。

 

でもね、ちゃんと克服できましたよ。瞑想をすると、自分の内側の、すべてとつながっている魂の部分にアクセスできます。そうすると、自分に芽生えた悲しみ、落胆、怒りといった感情を一度しっかり味わったうえでポーンと手放し、「起こることはすべて完璧である」という黄金律を、自分の経験として生きることができたのです。

 

結果、二男だけの短い帰省になりましたが、その分濃厚な2泊3日の滞在となり、過ぎてみれば、ただただ、もう感謝しかありません。

 

・・・・と長くなってしまいましたが、今日の記事を読んでくれたあなたは、まぎれもなくマスター学習者~マスターのプロセスにいます!

これからやってくる”ひっちゃかめっちゃか”に備えるべく、マスターへの道を、ともに励まし合いながら歩きましょう!!

 

 

お読みくださりありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ