ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”人間の行為のすべては、愛か不安に根ざしている”

 

私は20代のころ、自分の生きる意味が分からなくなって、キリスト教の教会に通ったことがあります。最初に向かった先は、自宅アパートから歩いて行けるほど近くにあった、プロテスタント系の教会でした。何度か通い、グループでの聖書勉強会にも参加しましたが、参加者の女性たちが、雑談の際に牧師さんの悪口を言っていたことにびっくりし、いつしか通うことをやめてしまいました。

つぎに向かったのは少し遠いカトリック系の教会でした。しかし、ここでも、教会員同士での差別やいじめがあることを知り、またまたびっくりして、教会通いはやめてしまいました。

その後、数年たち、サンマーク出版神との対話」シリーズを読んで人生が変わるほどの感銘を受け、なにかしたい!という衝動に突き動かされ、本の読者の集いを企画・開催しました。しかし、ここでもまた、びっくりすることになるのです。

 

私は、聖書の教えを勉強したり、「神との対話」を読み込んでいるような人はすべて、完璧な人ではないにしても、少なくとも、日々内省し、謙虚で、「愛」や「善」、「誠実」であろうと常に努力しているようなイメージを勝手にいだいていたのですが、全くそうではなかったのでした。陰で悪口を言い、陰湿ないじめをし、非難中傷をし、虚栄心が強い、そういう人が当たり前のように教会にも、スピリチュアル系の集まりにも、(かなりの数で)存在していたのでした。

 

つまり、表向きはいかにも”善”や”愛”のイメージがある団体のメンバー、あるいはそういった肩書を持っていたとしても、その人自身が実際に善や、愛や、光であるかはまったく関係がないと言うことです。(もちろん、存在するすべては「愛」ですが、それを選択していない、という意味合いです)

そのことは、上記の経験で知っていたんですが、つい最近、また同じような状況を目の当たりにして、ちょっとびっくりしてしまいました。

たとえスピリチュアル関連の知識があり、光と闇の戦い・世界情勢・宇宙の神秘・歴史の改ざん等々についての真実を知りつくしている人であっても、「愛」がなければ「無」に等しいのです。最終的に大事なのは、「愛」かどうか、それだけです。

自分自身、他人を見下しているところはないか、高慢になっていないかどうか、(自他ともに)ジャッジしていないかどうか、いつも気を配り、注意を怠らないようにしようと、あらためて思い起こしたのでした。

 

不安はちぢこまり、閉ざし、引きこもり、走り、隠れ、蓄え、傷つけるエネルギーである。

愛は広がり、解放し、送り出し、とどまり、明るみに出し、分けあい、癒すエネルギーである。

不安だから身体を衣服で包むのであって、愛があれば裸で立つことができる。不安があるから、もっているもののすべてにしがみつき、かじりつくが、愛があれば、もっているすべてを与えることができる。不安はしっかりと抱えこみ、愛は優しく抱きとる。不安はつかみ、愛は解放する。不安はいらだたせ、愛はなだめる。不安は攻撃し、愛は育む。

人間の考え、言葉、行為のすべては、どちらかの感情がもとになっている。ほかに選択の余地はない。これ以外の選択肢はないからだ。だが、どちらを選ぶかは自由に決められる。

サンマーク出版:「神との対話①」より)

 

 

お読みくださりありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ