ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”すべてのひと、人生すべての状況が贈り物で、天使であり、奇跡”

つい先日、お風呂に入っていた時のことでした。

なぜ、そんなふうに思い至ったのかの過程は忘れてしまったのですが、いわゆる、闇、カバールだとか、ディープステートだか、悪の権化と言われている彼らのことを思い浮かべた時、実は彼らは、本来の自分(愛)と全くかけ離れた行為をし続けていることに対し、魂の奥底、表面的には気付かない部分で悲鳴を上げ、助けを求めてのたうちまわっているのだという思いが突然私の脳裏を駆け巡り、彼らの激しい苦しみの感情のようなものを、ぐわぁーっと感じて涙がぶわっとあふれてきてしまったのです。もう自分自身でそれを矯正することができない、だから最後の最後まで抵抗し、あがき続けてしまう。だから光の側に、助けてくれと、本来の自分たちに戻りたいから、決着をつけてくれと、愚かしいとしか思えない行為をすることで必死に訴えているんだと、そう直感的に感じてしまったのでした。

 

「すべての攻撃は、助けを呼ぶ悲鳴なのだ」(サンマーク出版神との対話①より)

 

暴力や虐待を肯定するということではありません。でも、そういったものをこの地球に生み出しているのは、特定の、一部の腐ったリンゴが存在するせいではない。私たち全員がその可能性を創り出してしまっているから。だったら、もぐらたたきのように悪人を抹殺していても、何も解決しないわけで、また次から次へと悪人は登場します。気づきを促すために。

万人が、最上級の愛、最悪の不安を自由に選択し、創造し、表現することができる、すなわち自分の中にも、悪魔の可能性はある。恨み、復讐心、憎悪、侮蔑のような感情から闇の駆逐を願っても、光あふれる地球の再生は叶わないのだと、心底わかった気がしました。

 

「理不尽な殺人やひどい偏見、はびこる暴力、野放図な貪欲でも、非難するなとおっしゃるんですか。」

 

なにごとも非難してはいけない。

 

「なにごとも?」

 

なにごとも。わたしが送った師たちは、「批判するな、非難するな」と言わなかったかな?

 

「でも、なにごとも非難しなければ、すべてを肯定しているみたいじゃありませんか。」

 

非難しないからといって、変えようとしないわけではない。非難しないからといって、肯定していることにはならない。ただ、批判を拒否するというだけだ。批判しなくても、変えることを選択できる。

変えようという選択は、必ずしも怒りから発するとは限らない。それどころか、怒りが少ないほど、ほんとうの変革の可能性が高まるものだ。(中略)

祝福しなさい。敵を祝福し、迫害する者を祝福しなさい。彼らに最善のエネルギー、最高の考えを送りなさい。すべてのひと、人生のすべての状況が贈り物で、天使であり、奇跡だと思えなければ、それはできない。そう思えばすべてに感謝できる。(中略)

相手を愛で包みなさい。どんな経験であっても文字通り愛することによって、好ましくない経験を遠ざけることができる。ある意味では、「愛して死にいたらしめる」ことができる。(サンマーク出版:「神との友情下」より)

 

ここ最近、こんな感じで、いろいろなメッセージが「心底わかった」と、やっと言える気がしています。

 

「あんたの子供が誘拐されて、生きたままアドレノクロムの材料にされても同じことが言えるの?!」といきり立つ人もいるでしょう。確かに、自分が今生でそんな目に遭っていたとしたら、厳しいです。苦しいです。でも、でも、だからこそ、こんな悲惨な目に遭っていない、当事者ではないほかならぬ自分が、当事者の人たちにとって代わって、闇に光を送る作業をするのだと、そうしたいがために、いま、ここにいるのだと、強く感じるのです。

何十億人もいる地球上の人々それぞれが、全員違う環境下で違う経験をし、違う感情を味わっているけれど、全部つながっている。関わりあっている。一見、バラバラに見えるけれど、たった1つのわたしたち。宇宙にもあまたの存在がいて、みんな全部、全部つながっている。

 

今、私が直にできない経験を、私に代わってしてくれている、すべての、すべての存在に伝えます。

「本当にありがとう、心から感謝しています。ありがとう。愛しています」

 

今日はここまで、

お読みくださりありがとうございます。