ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”神は受け入れる。誰でも、何でも”

なんと、前回の更新からもうすぐ1か月がたってしまう。

それには理由があって、実は、内地の実家に2週間ほど滞在していたからだ。ノートパソコンを持参していかなかったので更新が滞ったのである。しかし、もしパソコンを持っていったとしても、おそらく更新はできなかったであろう。というのも、今回の帰省は、母の長期入院のため、一人きりになる高齢の父の面倒を見ることが目的だったのだが、私が想像していたより、何倍も忙しく、呑気にパソコンに向かう時間なぞまったく捻出できなかったに違いないからである。

 

私は、コロナ茶番デミックが始まってから、私自身と身内との間の、価値観・感覚・意識の格差が、日に日に大きくなっていくことに苦悩していた時期があった。

最初は、そのうち緊急放送だかデクラスだか、どんな方法かはわからないけど、隠されていた真実に一般大衆が目覚めざるを得ない日が近々やってくるのだから、まあ、しばらくの間身内との関係が気まずくなっても致し方ない、と、身内と距離を置いたつきあいをそのまま放置していた。

しかし、待てど暮らせど、情報開示は起きず、日本でのコロナワクチン接種は、気づけば4回目に突入してしまった。外界の状況だけに囚われていると、”すでに闇側は負け、光側が勝利している”なんて、とても信じられない戯言のように思えてくる。

身内との関係修復のきっかけを情報開示に頼っていては、私は指をくわえてなかなか起きないデクラスを待ちつづけ、いつまでもぎくしゃくした居心地の悪さを抱えていなくてはならない。それを打破するきっかけとなったのが、1月の義母の他界で、それを皮切りになんとその後立て続けに2か月おきに実家に滞在する羽目になった。7月にもまた父の面倒を見に行く予定なので、それを含めると今年に入って4回となる。

 

コロナワクチン接種もマスク着用も、個人の選択であり、その人その人の、魂の成長の機会や状況に関与・干渉すべきではない、と頭では理解していた。でも、心の中では何とも言えない苦々しさを抱えていて、私からの情報を見ても聞いても、テレビの報道のほうを信じ、あっさりワクチンを打ってしまう身内に対して、私は、ハッキリ言ってしまえば、

「自分の頭で考えない、こんなに簡単に騙される愚かな人達とは思っていなかった」という思いを、ずっと持ちつづけていた。

なので、遠方に住んでいるのをいいことに、2年以上会わずにいても不自然じゃないことに感謝してずっと過ごしてきたのである。とてもじゃないけど、コロナ茶番デミックが始まる前と同じような態度で身内と接することは不可能だと思っていたのだ。

 

けれど、2022年になり、義母が亡くなって、内地に行かざるを得ない状況になってから、2年以上ぶりに実の両親や兄弟と顔を合わせた。彼らには、私がいかなる状況でもマスクはつけない・ワクチンは打たない・過度な手指消毒もしないことを信条にしており、それを許容してもらえないならば会うことはできないと伝えた。母などは、

「自分の友だちでも、ワクチン打ってない人いるけど、マスクはちゃんと着けているわよ」(要するにTPOをわきまえている、と言いたいのだろう)とぶつぶつ言われたものの、お互いのやり方を尊重し、干渉しない、ということで合意して、なおかつこの手の話題はあえて避けることを暗黙の了解とし、一応コロナ前の家族関係を取り戻した。

 

そして、2か月おきに実家に滞在するたびに、だんだんと心の中の苦々しい思いは薄れていった。私は、頭では「個人の選択を尊重すべし」と理解していたつもりだけれど、感情のほうは全然そうじゃなかった。その証拠が身内のことを思うと感じる苦々しさであり、それはとどのつまり、自分のほうが正しい、真実を知っている、という思いあがった不遜な気持ちだったのである。

 

たとえ、感覚や価値観は違えども、私は身内を愛しているし、大事に思っている。素直にそう思える自分になって、やっと、他者の言動に対し、全面的に賛成・同意することと、全面的に受け入れることは、全然違うことなのだ、という、「神との対話」シリーズにもあったくだりを、実体験として経験することができたのである。

 

 

以下太字青字サンマーク出版「神との友情 下」より引用

 すべてを受け入れるとは、いま目の前に現れたものにあらがわないことだ。拒否せず、押し戻さず、逃げ出さず、抱きとり、つかみ、自分自身であるかのように愛することだ。それは自分自身なのだから。あなた自身が創造した楽しいものなのだから。楽しまなければべつだが。

楽しまなければ、自分が創造したものを引き受けまいと抵抗することになる。抵抗すれば相手はかえって強くなる。

だから、楽しみ、喜びなさい。もし、現在の状況や条件が変えたいと思うようなものなら、べつの方法で体験することを選択しなさい。外へ現れた姿、外見はまったく変わらないかもしれないが、内なる体験は変えられるし、変わる。あなたの決心しだいだ。

あなたがたはそれを追及しているのだということを、思い出しなさい。外見はどうでもいい。内的な体験だけを考えればいい。外の世界はあるがままでよろしい。こうありたいと思う内的な世界を創造しなさい。それが、この世界にいるがこの世界ものではない、ということだ。

それが〈マスター〉の生き方だ。

 

すると、賛成できないものであろうと、すべてを受け入れるべきだということですか?

 

 何かを受け入れることは、変化を拒否することではない。それどころか逆だ。受け入れないものは変えられない。とくに自分自身がそうだし、外の世界のことでも同じだ。

すべてを、内なる神性の聖なる表現として受け入れなさい。自分がその創造者だと宣言しなさい。そうすればやっと、「それを創造するのをやめ」られる。そのときやっと、べつの新しいものを創造する力を認識できる。つまり、その力をもういちど、知ることができる。

何かを受け入れるとは、それに賛成することではない。賛成しようがしまいが、ただ受けとめるということだ。

 

悪魔だって受けとめろとおっしゃるんでしょう?

 

そうしなければ、悪魔を癒せないだろう?

(中略)

神はすべてを受け入れる。人間はすぐに、「ただし」と例外をつくる。

人間は愛しあうが、ただし相手がこんなこと、あんなことをしたらべつだと言う。

世界を愛するが、ただし世界が喜ばしいものでなければならない。

わたしを愛するが、ただし愛していないときは、べつだ。

神はそんな例外をつくいらない。神は受け入れる。誰でも、何でも。

例外はない。

(中略)

何かを変えようと思ったら、まず、それが存在することを受け入れなければならない。何かを愛そうと思ったときも、同じだ。

自分のなかの否定している部分を愛することはできない。あなたがたはずいぶんたくさんの部分をいやがり、否定している。自分自身のなかに否定している部分があれば、自分を全面的に愛することはできない。したがって、ひとも全面的に愛することはできない。

 

 

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