ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”あなたが真実だと感ずるように生きなさい”

f:id:chisuke926:20211217223005j:plain

前回のブログとやや重複する内容になりますが、書きたい気持ちが盛り上がっちゃったので、書きます!

 

私は、自分がコンプレックスに感じている分野において、どうしても卑屈な態度をとってしまいがちであることを、前々からわかってはいたのだけれど、なかなか改善できずにいた。そもそも”完璧主義”というやっかいな性質を持ち合わせているために、ありとあらゆる分野でコンプレックスを感じてしまう。

 

よき娘であること、よき妻でよき母であること、よき嫁であること、仕事のスキル・・・・。

そして

”霊的な人間であること”。

 

なんだよ、もうこれって人として全部じゃん!みたいな感じ。でも、まあ長年スピリチュアルな探求をしてきたおかげ?もあって、妻として、母として、娘として、嫁として・・・みたいな部分においては、

「そこまで完璧を求めなくったって、自分は充分頑張ったし・・・。及第点でしょ!」

みたいなひらきなおり?があって、今はクヨクヨ悩むようなことは皆無となった。

 

しかし、いまだに克服できていなかった分野が、仕事のスキルにおいてと霊的成長において、この二つだった。仕事については、あまり詳細は書けないのだが、技術職であり、しかも日常的に学習を怠るとみるみるうちにスキルが低下してしまう。この仕事で定職に就いていたころは、自分なりにかなり努力した。自腹でテキストを買い込み、遠方でしか開催しない試験も受け、なんとか自分で納得のいくレベルに到達しようと必死だった。そもそもこの仕事はどんなに技術があったとしても、100点満点完璧にやり遂げるのが難しい。だからある程度、自分に甘い部分もないと精神的にキツイのだが、それが私には難しかった。結局、「どんなに頑張っても自信が持てない」というストレスを抱えたまま、退職し、その後はチビチビと派遣という形でこの仕事をしているものの、以前は仕事中に学習の時間を持つこともできたけれど、自宅にいてはなかなかその気が起きないため、私のスキルは低下の一途をたどり、自信のなさは倍増する一方だった。

私はもう、この仕事を完全にやめた方がよいのではないか・・・という思いをここ数年、ずっと感じ続けていた。

 

けれど、長年悶々と迷い悩んでいたこの件においても、決着がついた。

たしかに私は技術的には少々の問題はあるかもしれない。しかし、対人援助の分野であるこの仕事において、技術力だけではない、私だからできる援助のかたちがあるのではなかろうか?と最近思うようになった。

うまい、下手以外の部分で、私を評価してくれている方々が少なからずいる、ということに、前々から気づいてはいたのだけれど、そこに、もっと自信を持っても、いいのじゃあなかろうか、と思えるようになったのである。

 

私は、自分の技術に自信が持てないことばかりに着目し、失敗を繰り返してはがっくりしていたのだが、好かれている、信用されている、というのはよくよく考えてみたら素晴らしいことじゃないか、とそちらに目を向けられるようになれたのだ。

 

そしてもう一つ、前回のブログでも書いた霊的な分野でのコンプレックス。

これに関して、私に念押しするように、似たような体験がやってきた。ツイッターのフォローを外す程度では、体験として弱かったのだろう。

 

そして、結局私も、コロナ茶番デミックを仕掛けた連中に騙されて、自分の頭で考えることをなかば放棄し、政府の推し進める人間の自由・尊厳を奪う政策に黙って従う人たちとなんら変わらなかった、ということに、はたと気づいたのである。

 

たしかに私はコロナパンデミックについては、早い段階でヤラセだと気づくことはできた。しかし、自分の苦手分野に関しては、相変わらず自分の感覚を信用することができず、霊的能力が高いと巷で言われる人達が言うこと、やることを、半ば鵜呑みにしていたのである。

もちろん、誰かの生き方・主張を参考にしたり、自分を顧みる材料にすることは大事なのだと思う。しかし、それを咀嚼することもなく、

「この人がこう言うのなら間違いはないだろう」

「この人の生き方に倣えば、自分も霊的にレベルアップするだろう」

というのは、唯一無二である自分を放棄したことになる。

なんとも言えぬ違和感やモヤモヤ感は、思考と違って、頭ではなく胸のあたりで感じる。この感覚を、今まで蔑ろにしてきたなあ・・・と思うと同時に、自分を尊重して得られる爽快さとはこんなに素晴らしい感覚なのか!😆と飛び上がるほど嬉しかった。

 

こうして体験してみると、悶々・クヨクヨ・モヤモヤといった、一見、負の感情は、素晴らしい贈り物であるとわかる。そして、その感情をもたらすために、私の周囲に色々な人が関わりを持つべく現れてくれて、気づきへと誘導してくれるのだ。

なんてありがたいことなのだろう‼️

 

 

あなたが真実だと思っている価値判断のなかで、体験にもとづいたものはごくわずかしかない。あなたがたは体験するためにこの世に生まれ、その体験を通じて自分を創りあげるはずだった。ところが、他人の体験から自分を創りあげている。

罪というものがあるとすれば、これがそうだろう。他人の体験で自分を創りあげてしまうことだ。

それが、あなたがたが犯してきた「罪」である。ひとりひとりが犯してきた「罪」だ。

あなたがたは自分で体験するまで待たず、他人の体験を(文字どおり)福音として受け入れ、実際の体験をするときには、すでに知っていると考えていることをなぞる。

そんなことをしなければ、まったく違った体験ができるのに。その体験は、教師や情報源のほうが間違っていると教えてくれるかもしれない。だいたいあなたがたは親や学校、宗教、伝統、聖書を間違っていると考えたがらない。だから、教えられたと思うことを受け入れて、体験のほうを否定する。(中略)

あなたがたは教師が間違っていると考えるのが嫌だから、間違っているのは体験のほうだと自分に言い聞かせる。その結果、あなたがたは真実を裏切り、そのために、破壊的な影響が生じている。(中略)

他人からどう感じるべきかを指示され、それがほんとうの気持ちとは違うと、深い心理的葛藤を経験する。あなたがたの奥深くにある何かが、他者が言うことは自分の思いとは違うと語りかける。

サンマーク出版:「神との対話①」より引用)

f:id:chisuke926:20211118111809j:plain

 

そうそう、本当にそうなのだ。

他人、いわゆる崇め奉られている人の感覚と自分の感覚が違うことによって、モヤモヤした罪悪感のような感情が生じることを、私はずっと、自分の非なるところを知らせてくれるアラームのように思っていた。

自分の弱い分野に関して、自分の感覚が正しいはずがないと。

でも、自分の成長にとって何が役立つのか、と言えば、それは、

自分の感情を尊重した結果、得られた体験からしか、本当の気づきは生まれない

ということなのだ。だから、誰の感覚が正しいか間違っているか、ではなく、自分の感覚を信じてたくさんの体験をすること、(たとえ、得た体験がハッピーなものではなかったとしても)それが自己の成長にとって何より大切なことであると、今さらながら思い知った気がする。

 

 

神に似た存在であることを選ぶというのは、殉教者になることを選択することではない。もちろん、犠牲者になることを選択することでもない。

悟り──そのときには傷つき、被害を受け、喪失するという可能性がなくなる──への途上においては、傷つき、被害を受け、喪失することをみな経験の一部として認め、それとの関係でほんとうの自分とは何かを決定すればいい。

あなたはひとが考えたり、言ったり、したりしたことに傷つくだろう。いつか、傷つかない日がくるまではしかたがない。その日に最も早く到達する方法は、完全に正直になることだ。自分がどう感じているかをはっきりさせ、認め、口にすることである。あなたの真実を語りなさい。優しく、しかし包みかくさず真実を語りなさい。あなたが真実だと感ずるように生きなさい。おだやかに、しかし一貫してあなたが真実だと感ずるように生きなさい。経験によって新たなことがわかったなら、すなおにすばやく変更しなさい。

(引用元:同上)

 

自分の感覚もまた経験によって変動するものだから、過去の感覚にこだわるのはよろしくない。自分の感覚を大事にすることと、固執することをごっちゃにしないよう、柔軟に、しなやかに、自分にも他人にも接することができるよう、成長していきたい。

 

 

お読みくださりありがとうございます☺️💖

全てに感謝✨