10日ぶりの更新です!(だんだん更新の間隔があきつつある・・・😅💦)
さてさて、つい先日、ツイッターで私がフォローしている方の、あるツイートを読んだ際に、「こ、これはちょっとどうなんだろう?”愛”から発信しているとは、とても思えない・・・。」と感じ、その方をフォローするのを止めました。この方はフォロワー数ウン万人もいる霊的能力のお高い方ですが、この方を中傷するような発信も以前から多く見受けられ・・・。
私自身、本当のところ、この方は闇側なのか?光側なのか?確信の持てぬまま、なんとなくフォローを続けていたのですが、今回、ハッキリとわかったのです。
その人が闇側とか光側とか、そんなことはどっちでもいい。
だって私たち人間は、闇も光もすべて持ち合わせているのであり、全人類、どちら側になる可能性も秘めているからだ。そもそも、光と闇の境界線が目に見えるわけじゃなし、他人にすごく優しくなれた日もあれば、イライラして暴言を吐き、当たり散らす日もあったりして、一貫であることができず、意識的・無意識的に、一瞬一瞬にどういう自分であるのか、選択して創造しているのが私たち人間だ。
私たちは、他人の現実を創造することはできない。ひたすら自分の現実をおのれの意識でもって創り上げることだけが可能なのだ。
だから、すごい霊能者だろうが、カリスマ的スピリチュアルリーダーだろうが、何万人も支持者がいようが、そんなことを判断基準にして、自分の感覚をくもらせ、おろそかにしてはいけない、と心底気づいたのであります。
自分の主導権を自分で握らないでどうする!
今まで長い事、自分のことを「取るに足らない無力でちっぽけな自分」と思ってきたので、なかなかその癖が抜けず、どうしても、世間的に支持者が多く、すごい人、と称賛を浴びている方々の主張と、自分の感覚がずれている場合、何とも言えぬ後ろめたいような、バツが悪いような、モヤモヤ感がわき起こり、
「こんなふうに思う自分のほうがおかしいのだろうか・・・。」と自問した挙句、どちらともつかない状態のまま結論を保留してきました。自分の中に、霊感やサイキック能力が皆無であることの引け目、というか、スピリチュアル的にレベル低い?的な発想があり、苦手な分野だから余計についつい下手にでてしまう・・・そんな習慣から脱却できずにいたのです。
でも、レベルだの周波数だので自分が優位に立ったり逆に劣等感を持ったりすること自体が分裂意識の表れにほかなりません。
けれど、この分裂意識は祝福なのです。
この分離感を味わって初めて「わたしたちは一体である」ことを体験することができるからです。
あなたは神と等しく、神と等しいことをぜひとも経験したいと願っている。あなたは神に劣らないし、ほかの何にも劣らないが、優越しているものが何もなければ、劣らないということを知って経験することもできない。そこであなたがたは優越性という幻想を創造した。自分があらゆるものと等しいことを知るために。つまり、何ものにも優越していないことを知るために。
神との一体性は、一体性の欠如、つまり分裂が可能な場でしか経験できない。幻想の外側にある真実を知るためには、相対的な関係性の場、つまりここで幻想と呼ぶもののなかにいなければならない。「この世にいて、この世の者ではない」状態でなければならない。
同じく、神とも人生のあらゆるものやひととも等しいことは、「等しくない」というのが何かを理解するまでは「経験不可能」である。
だから、あなたがたは優越性という幻想をつくり出した。
(中略)
幻想を幻想として見抜いたとき、存在するすべてのなかには優越する部分などないことがわかるだろう。あなたのすべての部分、それは存在するすべてだから。そのときは勇気を呼び起こすのではなく、自分が勇気であると知るだろう。神に呼びかけるのではなく、自分こそ呼びかけるべき神の側面だと知るだろう。
あなたは呼びかける者であり、呼びかけられる者である。変える者であり、変えられる者だ。創造者であり被造物。はじまりであり終わり。アルファでありオメガである。
それが、あなたである。なぜなら、それがわたしだから。あなたはわたしの姿をかたどって、わたしに似せてつくられたのだから。
あなたはわたしである。わたしはあなたである。わたしはあなたのなかに入り、あなたとなり、あなたを通じて存在する。あなたのなかに、わたしの存在がある。
あらゆるひとのなかに、あらゆるもののなかに。
したがって、あなたがたのなかにひとよりすぐれた者はいない。そういうことはありえない。だが、あなたがたは優越性という幻想をつくり出した。自分の力を(そして延長としてすべてのひとの力を)知るため、自分が神やその他すべてと一体であり等しいことを知るため、そしてすべてのひとが神やそのほかのすべてと一体であり、等しいことを知るためだ。
(サンマーク出版「神とひとつになること」より引用)
自分が他者より優位であれば気分が良くなり、劣っていれば気分が悪くなる。どちらの気分も十分味わった後に、どちらが正しいとか悪いとかではなく、どちらも素晴らしい体験であり祝福であるのだとやっとわかるのです。そしてこの経験を味あわせてくれたのは、”自分ではない誰か”のおかげだという感謝の念が湧き起こります。そして、自分自身を尊重することこそ、他者を尊重することになるのだと気づくに至るのです。
チューリップはバラよりすぐれているだろうか?山は海よりも立派だろうか?どの雪の結晶がいちばん見事なのか?すべてが見事なのではないか?──ともにその見事さを祝って、驚くべき美しさを生み出しているのではないか?それから、お互いが溶け合ってひとつになるのではないか?だが、決してなくなりはしない。存在しなくなることはない。ただ、かたちが変わるだけだ。それも一度ではなく、何度も。固体から液体に、液体から気体に、見えるものから見えないものに、何度も変化して戻り、何度も新たな息づまるような美と驚異を展開する。
これが生命であり、生命を育むということだ。
これがあなただ。
この比喩は完璧だ。
この比喩は現実だ。
これが真実だと心に決め、そのとおりに行動すれば、経験のなかで実現することができる。ふれあうすべての生命に、美と驚異を見ることだ。それぞれがすばらしく、それでいながら、他のもの以上にすばらしいものはない。あなたがたはいつの日かひとつに溶け合い、自分たちが一緒になってひとつの流れをかたちづくっていることを知るだろう。
(引用:同上)
わたしたちは一体だからこそ、権威ある誰かや何かに従属せず、全体の一部である自分を自分らしく光らせることに専念することが、全体をより輝かせることにつながる──そして、それを可能にするのは、自分への信頼・愛によって、ではないでしょうか。
みんなちがって、みんないい。
お読みくださりありがとうございます☺️💖。
全てに感謝✨