昨日の朝、モヤモヤした気分を抱えている自分に気付いた。理由はわかっている、一昨日、母から届いた荷物に添えてあった、短い手紙の中の一文が引っかかっているのだ。
手紙には、”なにごともこだわりすぎないように”と書かれていた。
それはつまり、コロナ茶番デミックが始まって以来、お互い認識しているコロナの、世界の真実が、月日を追うごとにどんどんかけ離れていき、関係を悪化させたくないならこの手の話題を持ち出してはならないほどになっていて・・・😅💦。
母は、世間の常識を守らず、家族からはみ出している娘のことをたいそう心配し、その思いが
”こだわりすぎるな”という勧告となってしまったようだが、世間にどう思われてもさほど気にしない自分も、家族に妙なレッテルを貼られると、反発したくなってしまう。
しかし、ここでまた異論を唱えれば、関係がぎくしゃくするだけなので、
「自分は迷いなく生きているので、心配しないように」とラインで返事はした。
この一連の出来事が、一晩寝ても後を引き、朝っぱらから気分を重くしていたのだった。
洗面所で鏡を眺めながら、
(こんな気分を引きずるのは嫌だな・・・)と考え、そのままトイレに入った。
トイレの中でふと頭によぎったのが、「神との対話」シリーズ「神とひとつになること」に登場する、あるメッセージだった。
どの瞬間も、それ以前のあなたの人生の終わりであり、あなたが選んだ新たな人生のはじまりなのだから。
あなたは毎瞬、自分自身を新たに再創造している。意識的か無意識か、すべてを完全に意識しているか、それともわからずにいるかというだけだ。
(中略)
さらなる生命を体験するには、さらなる死を体験することだ。死を「一生に一度」の体験にしないことだ!人生の毎瞬を死として体験しなさい。死とはある体験の終わりでべつの体験のはじまりだと考えれば、人生の一瞬一瞬は実際に死なのだから。
そうすれば、いま過ぎ去ったこと、いま死んだことを一瞬一瞬に葬ることができる。それから、方向を変えて未来をつくり出すことができる。未来があり、さらなる生命があることに気づける。
これがわかれば、不十分だという考えは砕け散り、新たな理解と深い感謝とひろい認識と大きな意識によって、現在という黄金の瞬間を新たな方法で活用できる。
そうすれば、あなたの人生は一変するだろう。
(サンマーク出版:「神とひとつになること」より引用)
便座に座りながら、私は、頭に浮かんできたこのメッセージを自分の中で咀嚼し始めた。
(嫌だな・・・と感じる、悶々とした思考を、延々と創造しているのは、まぎれもない自分だよね?神様が言うことが本当なら、この”悶々思考”を抱えて続けている自分を死んだものとして葬り去って、”ルンルン思考”の自分をたった今、ここで創造すればいいだけなんじゃね?)
と思った瞬時に、悶々思考が嘘のように消滅したのだ!!
自分でもびっくりした。
今まで何度も、あり方を変えるとか、新たな自分を創りあげるとか、さんざん努力してきたつもりだが、その技を完璧に習得しておらず、
(”一瞬であり方を変える”とかって、そんな簡単じゃないよ、神様・・・・😩)とぼやいていた私だったのに、こともあろうにトイレの中で、さほど努力するわけでもなく、あっさり、
現在という黄金の瞬間を新たな方法で活用
することができたのだ!
これは、あたかも、自転車の補助輪を外してスイスイ乗り回す練習や、逆上がりの特訓に似ている。
不器用で運動神経がにぶいと、どんなに指導者のアドバイスを実践してみてもコツがつかめず、
「そんなこと言われたって、できないものはできないよ!」と、すねたりいじけたり泣きべそをかいたりして、でも、出来ないことが悔しくて、必死に練習するのだが、やればやるほど「できない自分」が脳内に染みついちゃって、「できる自分」を想像(創造)しにくくなっていく。
そんな時、たまたま何も考えず、ふっとチャレンジしたら・・・。
あっさり成功!(え?なんで?どうして?わ~いやった、嬉しい!!😆)
一度成功すると、さっきまであんなにできなかったのが嘘のように、簡単にできる自分に驚くとともに、
(なんでこんな簡単なことが、今までできなかったんだろう?)なんて思えてきちゃう・・・なんて体験を誰でも一度や二度は味わっているだろう。
最初に「できない」のはみんな同じなのに、その「できない体験」が短い人と長い人がいるのはなぜか。
「できない自分」を延々と想像(創造)しちゃうからなのだ!!
初めて、あっさりと過去の自分を葬り去ることに成功して気づいた。
これって、身体上の悪癖を止めるのと同じではないか?
私には、妙な悪癖がある。
かさぶたや耳垢、へそのゴマのようなものを、むしりとったりホジホジするのが大好きで、私の家族はその犠牲になってきた。しかし、耳垢を掃除させてくれていた息子たちは成人して家を出てしまい、へそのゴマをむしらせてくれたダンナは「あれ痛いから」とさせてくれなくなった。
そんな中、年を取るにつれて、私の身体の一部分に、この悪癖にもってこいの?ある厄介な症状があらわれ始めた!
それはなにか、というと、足のかかとの皮剥きである。寒くなってくると、足のかかとがガサガサになり、ひび割れてくるのだが、この皮のはじっこをつまんで、ぴーっと剥くのが楽しくてしょうがないのだ。どういうわけか、左手で左足のかかとの皮を剥くことに限定されているので、右足のかかとは無残な目に遭わずに済むが、左足のかかとは、剥き過ぎて、ガサガサじゃないところまでうっかりむいてしまい、血が出たり痛みが伴うことも当たり前だ。それでもなかなかやめられず、無意識に左手が左足かかとをいじっている自分がいる。これはいかん、一種の病気だ!と、この悪癖から足を洗うことに決めた。
その手順は、
まず、かかとがガサガサにならないように保湿クリームを塗りこむ習慣をつけ・・・。
①この悪癖を断つ!という断固とした決意を持つ
②左足かかとに左手が伸びていく前に、剥こうとしている自分に気付く→手を引っこめる
③うっかり、皮を剥いてしまったら、速攻手を止め、保湿クリームを塗りこむ
②の場合は、ことが現実化する前に、未然に防ぎ、③の場合は、瞬間的に皮を剥いてしまったものの、行為を継続することを許さないわけで、それを可能にするのは何か、ゆるぎない確固たる意志を持つ、ただそれだけだ。
身体的悪癖をこのような手順で乗り越えられるのなら、精神的悪癖だって同じことではないか!
①悶々思考を長びかせる自分を葬り、ルンルン思考を身に着けるべく、愛・喜びベースのあり方をキープする、という確固たる意志を持つ
②心に暗雲が立ち込めてくる気配に気づき、ネガティブ思考を再現する前にやめる
③うっかり悶々と考えてしまったら、速攻やめて、愛や喜びの思考に切り替える
・・・・この理屈も、今までの気づき同様、何度も何度も「神との対話」シリーズのなかで読んできたのに、私の中では、実践が伴わなかったり、うまくできなかった概念だったけれど、やっと、やっと、単なる知識から、→ 体験して → 感じる、十全たる気づきになった!(かもしれない。ちょっと弱気💦)
「神との対話①」で、著者ニールさんは、次のように神様に聞いた。
どうしてわたしはいつも暗い考え方ばかり選ぶんでしょうか?暗い方を選んでは、自分を責めるんでしょうか?
無理もないと思わないか?あなたがたは小さいころから、「悪い」と言われつづけてきた。(中略)
まさに「誤解」だ。
わたしが生み出したもの、生命を与えたものはすべて完璧だからである。生きとし生けるものはすべて、完璧さの完璧な反映であり、わたしの姿をかたどって、わたしに似せてつくられている。
(中略)
あなたがたは劣った考え、劣った思いを選び、自分を力のないちっぽけな存在だと思いつづける。そう、教えられてきたのだから。
やれやれ。どうすれば、そんな教えから逃れることができるのですか?
この本を何度も読み返せば、そんな教えから逃れられる。何度も、くりかえして読みなさい。すべての文章が理解できるまで。すべての言葉を覚えるまで。誰かに本の中の文章を聞かせられるようになるまで、暗く落ちこんだ時に本のなかの文章が心に浮かんでくるようになるまで。そうすれば、「そんな教えから逃れる」ことができるだろう。
32歳頃から20年以上、本がボロボロになって買い替えるほど何度も何度も読み続けてきた甲斐があった!と感じる瞬間を、今も、これからも、私は経験していくのだろう。
「神との対話」シリーズを読むと、著者ニールさんは私同様、自己肯定感が低く、せっかちで完璧主義なところがあるようにお見受けする。だからこそ、私にとって「神との対話」は、気づきや悟りへ誘ってくれるベストマッチな書物なのだと思う。
(※以前のブログで、「奇跡のコース」をネット購入した、と書きましたが、文章が難解で、今の自分にはほぼ読解不能!でした。本棚の肥やし?になる予感・・・。)
何よりもまず言いたいのは、あなたはあなたの過去ではない、ということだ。
あなたはあなたの昨日ではない。あなたは昨日したことではないし、昨日言ったことではないし、昨日考えたことではない。
(中略)
あなたは、瞬間に生きればいい。現在の瞬間に、新しい自己を創造すればいい。
そうすれば、自分についての古い考えと自分を、引き離すことができる。
(「神との友情 上」より)
お読みくださりありがとうございます☺️❤️。
全てに感謝✨