ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

"しなければならないことは、何もない。ただ、ありのままのわたしでいればいい"

 

「しなければならないことは、何もない」と決めたら、「行為」によって問題を解決するのではなく、「問題」が消えてしまうような存在になるだろう。そうすれば、問題を起こす条件は消える。

あなたの進化の過程では、これがいちばん大切な真実かもしれない。いつもこのことを忘れず、マントラのように唱えているといい。

しなければならないことは、何もない。しなければならないことは、何もない。しなければならないことは、何もない。ただ、ありのままのわたしでいればいい。

だからといって、あなたの人生から「行為」がなくなるわけでなないよ。そうではなく、あなたが経験する行為はあなたの存在から生じるのであって、行為があなたを存在に導くのではないということだ。

あなたが最初に「幸福」であれば、幸福だから何かをすることになる。幸福になりたいから何かをするという古いパラダイムとは逆だ。

あなたが最初に「智恵」であれば、賢いから何かをする。智恵を獲得しようと何かをするのではない。

あなたが最初に「愛」であれば、愛だから何かをするのであって、愛を得たいから何かをするのではない。

あなたが「存在」しようと求めるのではなく、最初に「存在」であれば、すべては変化する。

すべては逆転する。「行為」によって存在に行き着くことはできない。幸福に、賢明に、愛になりたくても──あるいは神になりたくても──行為によって「そこへ行き着く」ことはできない。だが、「そこに行き着けば」、すばらしい行為をする、それは真実だ。

ここに神聖なる二分法がある。「そこへ行き着く」道は「そこにいる」ことだ。行きたい場所にいなさい!簡単なことだ。しなければならないことは、何もない。

幸福になりたいか?では幸福でいなさい。賢明になりたいか?では賢明でいなさい。愛が欲しいか?では愛になりなさい。いずれにしても、それがあなただ。

いとしい者たちよ。

サンマーク出版:「神との対話③」より引用)

 

「しなければならないことは、何もない」というのは、神との対話シリーズで神様が示してくださった、3つの大きな柱となる智恵のひとつです。

このメッセージを初めて読んだ20年以上前は、私は3人の幼子を抱える専業主婦でした。

 

(しなければならないことは何もない、って言われたってあーた、子供のおむつ変えて、ご飯食べさせて、おっぱいあげて、掃除して、洗濯して、ごみ出しして、これ全部うっちゃってもいいわけ?そりゃダメでしょ、出来ないっしょ!それとも神様があたしの代わりにやってくれるの?だったら、全部しないけどさ、けっぼけーDASH!

と、まあ神様に向かって、悪態をついていたんですよ。

当時の私の心の声を読めばお分かりの事と思いますが、要するに私は、家事も育児も、ただただ、〈義務感〉でこなしていたのであります。妻として母として、しなければならないからする。そしてそれが24時間365日だったので、忍耐や我慢ばかりしているような精神状態がひたすら続き、ストレス発散しないと時々爆発してダンナに当たり散らす、という悲惨な時代でありました。

しかし、「これじゃいかん!」と、反省し、神との対話から得た知恵を日常生活に活かそうとしたつもりが、活かし方を激しく誤り、奈落の底にまっさかさまに落ちてしまったのでした。

 

とにかく、育児も家事も、嫌々苦痛を感じながらしている自分を変えたくて、楽しもう、喜ぼう、愛そう、と必死になったのですが、神との対話に出てくる、自分を一瞬で変える魔法の呪文、「いま、愛ならどうするだろう?」を唱えるたびに、私の頭に浮かぶのは、

「この状況を楽しむべきだ、子供をまるごと受け入れるべきだ、無条件で愛するべきだ」といった、”こうあるべき”のオンパレード。

愛でありたい、幸福でありたい、でも、そんなふうになれない、なれないよお~!!!と、時に泣きじゃくりながら、頭をポカポカ叩いていたこともあります(相当病んでましたね・・・)。

 

今ならはっきりわかります、そう、私はヤミ子から全速力で逃げていたんです。

(ヤミ子って何?と思った方、以前のブログを読んでねラブラブ

 

 

子供たちの世話や苦手な家事から逃げ出したい、という思いを、母として妻としてあってはならない、とんでもない感情だとして、こんなふうに感じる自分は鬼だ、悪魔だ、怠惰で根性なしだ、と、ヤミ子の叫びを無視して、目指すあり方──喜び、愛、受容、楽しむ、大らか──を獲得しようとすればするほど、全然できなくて、気が付けば、いなくなってほしいヤミ子の存在感がどんどん肥大化していく。

自分が、家事や育児に対して抱いていた義務感を検証もせずに至福感にすげ替えようたってそうはいかないんです。愛があれば義務だなんて思わないはず!と信じて疑わなかったんですが、実は、義務感そのものが、私にとって大切な、気づきへ導く愛のギフトだったんですよね~。育児や家事が楽しめない、しんどい、逃げ出したいというのを、素直に認め、パートでもなんでもいいから働きに出て保育園に子供を預ける、家事を徹底的に手抜きする、心からしたいと思えることをじゃんじゃんしちゃう。もちろん、当時もこういう発想ありましたよ、でも、そう思うたびに、(でも、仕事に出たら、朝夕の家事がいまよりもっと大変になる)(インスタント食品ばっかりあげてたら、子供たちの発育に良くない)(掃除しなかったら二男の喘息がひどくなる)と、すぐに言い訳をこしらえて、実行に移しませんでした。

義務感100%の、いつもそばにいる母親よりも、家事も育児も超テキト~で好きな事して生き生きしている、あんまりそばにいない母親のほうが、ずっとずっと子供たちにとってはよかっただろうなあ・・・と今になってみれば本当にしみじみ思います。(ごめんよ息子たち!許せあせる

けれどもあの頃は、世間一般の母親像から逸脱してまで、したいことをどんどんする、自由に生きる、なんてとても考えられなかったし、無理だと思っていました。

ところが、先日、当時の私の思い込みを180度覆した生き方をしたある女性の生きざまを、娘の立場から書いた本、

 

ヴィオラ母さん」ヤマザキマリ著 を読んで、衝撃を受けました。

 

 

ヤマザキマリさんのお母さん、リョウコさんは、一般的なお母さん像からは全くかけ離れた、常識的な人から見たら、とんでもない自分勝手な母親、と言われかねない自分ファーストのお母さんなのですが、清々しいまでに自分の思いを第一に尊重し、貫き通すその生きざまに、娘のマリさんも、傍にいない母への多少の不満や淋しさはあったようです。でも、その母親の言葉や態度じゃなくあり方から伝わる自分への愛情や、対等に尊重してもらっていることからくる満足感、至福感をいつも感じて過ごしていたそう。

母親だから、大人だから、世間から非難されるから、こうするべき、こう在るべきが一切なく、何よりも自分の魂から湧きあがってくる思い・情熱をいちばんに尊ぶことを譲らなかったリョウコさんだからこそ、娘たちに対する愛情は、宇宙のように広く、大らかで、自由そのものだったのではないかと思います。(書中の漫画もとても面白く、一気に読めます。超おススメです!!)

 

「しなければならないことは、何もない」はずなのに、しなければならないことだらけの日常を生きている・・・・。それは、生き方を変える大チャンスなのです。とりあえず、即死しないで済むようなことならば(笑)、しなければならないと思ってしていることを、やめてみて、そのかわりに「したいと思っていること」をやってみる。自分の正直な感情を尊重しだすと、嫌々だらけの日常に変化が現れ、自然にウキウキワクワクし始める。そこには、努力や無理強いはなく、気づけば在りかたが変容し、義務感だけでしていたことすら楽しく思えてくるはずです。そう、自分の在りかたが現実を創造するのです。

その変容への扉を開いてくれるきっかけを与えてくれるのが、自分の中にある不安や恐怖、苦痛、恨み、妬み、うんざり、イライラ・・・・といったいわゆるネガティブな思い。つくづく、こんなにありがたいものはないですね!そういえば、”感情は嘘のつき方を知らない”、と、神様が言ってましたね~。

 

 

あなたがほんとうにしたいことを、どんどんしなさい!ほかのことをしてはいけない。もうあまり時間はない。生活のためにしたくもないことをして、人生の時間を無駄にしようなどと、どうして考えるのか?そんな人生がなんだというのか?そんなのは生きているのではなく死んでいるのだ!

あなたが「しかし、しかし・・・わたしには扶養しなければならない者がある・・・食べさせなければならない子供がいる・・・・わたしを頼っている配偶者がいる・・・」と言うなら答えよう。人生とは身体がしていることだと主張するなら、あなたはどうしてこの世に生をうけたのかを理解していない。

少なくとも、楽しいことをしなさい。それなら、あなたが何者であるかを語ることになるから。

そうすれば、少なくとも、ひとを恨んだり、怒りを感じたりしなくて済む。

(「神との対話①」より引用)

 

 

お読みくださりありがとうございます。

すべてに感謝照れドキドキ