「この世界はおかしい」と思うようになったのはいつのころからだったか。飢餓に苦しむ、発展途上国の痩せ細った子供の映像をテレビで観た時か、第2次世界大戦が終わっても、世界のどこかで必ず戦争があって、誰もそれを止めることができないのが不思議でしょうがなかった時か、環境を破壊すれば、いずれ人間にもそのしっぺ返しが来るという自明の理を、なぜ人々は理解できないのかと怒りに震えた時か、いずれにしても、子供のころから世界の在り方に対し、漠然とした違和感を感じてきました。
あなたが生きている世界は、あなたが選択したのだ。その世界をもう望まないなら、世界は変えられる。(サンマーク出版:「神とひとつになること」より)
私が、こんな悲惨で非情な世界を望んだ?そんなことを望んだ覚えは一度もない!と思ったし、こんな世界を変えるたって、一人で何をどうすればいいの・・・?と、↑のフレーズを読んだ最初のころは、どうにも釈然としない気持ちで神様に反発したくなりました。
この真実を、たいていのひとは受け入れない。受け入れれば、自分も共犯者であることを認めなければならないが、そんなことはしたくないからだ。知らずに創造に手を貸したと思うより、不本意な犠牲者の役割のほうがいいと思うからだ。そう思うのも、もちろん理解できる。この世界が自分自身の創造の産物で、自分自身の意図と欲望の結果だと思ったのでは、自分が赦せないからだ。(中略)
では誰がしたのか?いまのいままで、誰がそのようなことをしてきたのか?誰かに責任があるはずだ。では誰なのか?
そこで悪魔が登場する。
(中略)
あなたが生きている冷たくて無情な世界の責任はあなたにはない。あなたがそんな世界をつくったのではない。
「そう、どこかのレベルではわたしがつくったのかもしれないが、それは私が悪いのではない」とあなたがたは言う。「悪魔がそうさせたのだ」と。(引用元:同上)
地球上では、毎日メディアはフェイクニュースで一般人を洗脳しようとし、政府はコロナパンデミックで国民の日常生活に厳しい制限を課し、職や住まいを失った人が増え続け、自殺者は急増、ヤバいワクチン接種を推し進め、選挙は不正が当たり前。
こんな滅茶苦茶な世界の中で、私のようなごくごくフツーのおばさんに、いったい何ができるのでしょうか。
トランプ大統領が再選するのを願ったり応援するだけでよいのでしょうか?
情報開示があるのを、ただ指をくわえて待っているだけでよいのでしょうか?
こんな世界になったのは自分のせいじゃない、闇の存在が長いこと地球を支配してきたからだ、といって、悪者退治が終わるのを眺めていればよいのでしょうか?
私たちは、必ず「何か」との関係性の中で生きています。コロナで1日中家に閉じこもっていたとしても、世界は「わたしでないもの」であふれており、その中で私たちは生きているのです。
寒さから守ってくれる衣服、お布団、空腹を満たし、栄養を摂取することのできる食料、体を清潔に保ってくれるお風呂、生きていくうえで欠かせない空気、私たちが吸う酸素を作ってくれる植物、ちょっと考えただけでも、さまざまなモノや環境にとりかこまれて、生活していることがわかります。
私たちは、そのすべてに感謝して生きているでしょうか?
当たり前だと思っていないでしょうか?
「わかりましたよ、もうわかりました!」と言いたがる者もいるだろう。だが本当にわかっているだろうか?わかっているかどうかの尺度は、あなたがたが生きる人生だ。あなたがたの生き方に、理解の深さが反映される。
あなたがたの人生が、つねに喜びと祝福にあふれているなら、ほんとうにわかっているのだ。だからといって苦痛や苦しみ、失望をもたらす条件がなくなるわけではない。そうした条件にもかかわらず、喜びに満ちて生きられるという意味だ。(中略)
人生に(life:生命に)無条件の愛をいだいていれば、いま、あるがままの人生を(life:生命を)愛せるようになる。それは、そこに「完璧さを見る」ときはじめて可能になる。(引用元:同上)
愛と光で満ち満ちた世界を望むのなら、まず自分が愛と光で満ち満ちていなくては、望む世界は実現しないでしょう。
ちょっとしたことに感謝することから始めてみませんか?
「○○、ありがとう」と心のなかで思うだけで、胸があったかくなって、喜びの感情があふれてくるにちがいありません。
お読みくださりありがとうございます。
すべてに感謝