ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”どんな交流も、「はじまりが始まった」瞬間に「終わりが始まる」”

今日、愛猫ココが急逝しました。昨日まで元気で、どこも悪くない様子だったのに、昨夜から具合が悪くなり、あっという間に虹の橋を渡ってしまいました。

もう15歳なので、いつ、病気で死んでしまってもおかしくないとは思っていましたが、まさか、こんな突然に逝ってしまうなんて、昨日のこの時間には全く思いもよらないことでした。

 

15年前、ココを引き取るきっかけになった、仔猫チースケの死を経験したとき、ペットロスで毎日が苦しく辛かった日々のなかで、私は「死」について、スピリチュアルな観点から必死に学びました。なので、今では、「死」は存在せず、かたちを変えるだけであり、悲劇ではなく贈り物だ、ということ自体は知ってはいます。

 

あなたがたが「死」と呼ぶことはすばらしい。だから誰かが死んでも悲嘆にくれる必要はないし、自分の死を悲しみや不安のうちに迎えることもない。生命/人生を歓迎するように、死を歓迎しなさい。「死」とはべつのかたちの生命なのだから。ひとの死を穏やかな祝意と深い幸福をもって歓迎しなさい。死はすばらしい喜びだから。死を---自分の死も他人の死も---安らかに経験するには、つぎのことを知っていればいい。死ぬひとはつねに自分でそうしている、ということだ。

あなたの死を引き起こすのは、あなた自身だ。いつ、どこで、どんなふうに死ぬのであっても、これが真実だ。(サンマーク出版:「神へ帰る」より)

 

でも、知識として知っていることと、それを生きることはまた別です。

今は、ただ、辛く、寂しく、悲しい。ココは自分で死ぬ(かたちを変える)と決めて、逝ってからも安全で、痛みや苦しみのないところできっと若返って元気で跳ね回っている、ということは信じられても、もうかたちある存在としてのココには現世では2度と会えないのだ、という事実が、どうしようもなく切なく悲しいのです。

 

人生のどんなときでも、その瞬間を意識したとたんに、死と喪失について考えずにはいられないはずだ。そうでなければ、まったく人生がわかっていないことになる。半分を知っているにすぎない。

どの瞬間も始まったとたんに終わる。それがわからないと、その瞬間のどこがこのうえなくたいせつなのかわからず、平凡なひとときにしか思えないだろう。どんな交流も、「はじまりが始まった」瞬間に「終わりが始まる」。そのことをよく考え、深く理解してはじめて、すべての瞬間の、そして人生そのものの貴重さが充分にわかるだろう。

死を理解しなければ、生命は与えられない。理解するだけではいけない。生を愛するように、死を愛する必要がある。これが最後だと思えば、誰かと一緒のひとときが輝くだろう。どの瞬間も、経験するのはこれが最後だと思えば、はかり知れないほど重いものになるだろう。死から目をそむけているから、自分自身の生命を考えなくなるのだよ。(サンマーク出版:「神との対話③」より)

 

ココは、自分の死を通して、命の大切さ、すべての瞬間に愛をほとばしらせることを怠ってはならないこと、当たり前のささやかな日々も、いつか必ず終わりを迎えるのだということを、改めて私に思い出させてくれました。

今はまだ悲しみは癒えないけれど、大丈夫、3匹の猫と1匹の犬を見送った経験が、私を、悲しみに執着せずに、十分悲しんだ後はその感情を手放すことができるように、成長させてくれました。

 

ありがとうココ、15年間一緒に過ごせて幸せだったよ!淋しいから、時々会いに来てね、永遠に愛してるよ。

 

お読みくださりありがとうございました。

全てに感謝ドキドキ