ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

「エゴ」とは何か?

「エゴ」という言葉を調べてみると、”自己・自我”と出てきます。また、”エゴイズム=利己主義の略:自己の利益を重視し、他者の利益を軽視・無視する考え方”、”うぬぼれ、慢心、自尊心”・・・、とあまり良くないイメージがつきまといます。

 

真の自己愛はエゴを肥大させるのではなく消滅させる。言葉を変えれば、自分を知れば知るほど、エゴは小さくなる。真の自分を充分に知れば、エゴは完全に消えてなくなる。

 

でも、エゴというのは自己の意識でしょう?

 

いや、エゴというのは、自分が考えている自分だ。真の自分とは何の関係もない。

サンマーク出版:「神との友情 上」より)

 

自分が考えている自分とはなんでしょうか?

例えば、「わたしは人より劣っている。わたしはダメでつまらない人間だ。」も、「わたしは誰よりも賢く、優秀で、人の上に立つべき人間だ」、も、中身は相反する内容ですが、他人と自分を比べることで、自分がどんな人間なのかを定義しています。一方は自分を卑下し、一方は周りを見下しています。

私たちは、しょっちゅう、自分と他人を比較して、自分がどんな人間なのかを推し量り、優越感に浸ったり劣等感に押しつぶされそうになったりします。そして「自分が考える自分像」を作ってしまうのです。じゃあ、エゴって私たちにとって厄介者なだけなの?

 

エゴをもつことはかまわないよ。ぜんぜん、かまわない。

いまのあなたを体験するには、つまり、あなたが想像するような「相対的世界にいる別々の存在」という体験のためには、「エゴ」が必要だから。(中略)

あなたが相対的な世界---わたしが相対性の領域と呼ぶところだ---に入ったのは、絶対の領域では経験できないことを経験するためだ。あなたが体験したがっているのは真の自分だ。だが、絶対の領域では、真の自分を知っていても体験できない。魂の望みは体験して知ることだ。絶対の領域では自分のどの面も体験できないのは、そこには自分ではない面がないからだ。(中略)ものごとに段階があるのは、相対性のなかだけだ。相対性の領域は、あなたがすばらしい自己を体験的に知ることができるようにと創り出された。絶対の領域ではすべてがすばらしいから、すばらしいということも「ない」。つまり体験できないのだ。(引用元:同上)

 

「すばらしい」、という体験をするためには「すばらしくない」状況が必要になりますが、絶対の領域には「すばらしくない」が存在しないので体験できないわけですね。他にも、「寛容」とか、「喜び」、「全面的な愛」などの体験をしてみたい!と思っても、絶対的な領域では「寛容ではない」「喜びではない」「全面的な愛ではない」が存在しないので、これまた体験できません。

 

じつは、あなたはすべてと一体なのだ。それがあなたのすばらしさだ!だが、すべてと一体であるすばらしさは、すべてと一体であるあいだは知ることができない。(中略)

すべてと一体であるすばらしさを唯一、体験できるのは、すべてと一体ではないという状況、あるいは状態だ。だが絶対の領域ではすべてが一体だから---それが究極の現実だから---すべてと一体でないものはありえない。

しかし、すべてと一体ではないという幻想は可能だ。その幻想のために、相対性の領域が創り出されたのだ。(中略)

あなたのエゴは、この幻想を創り出す大きな道具(ツール)なのだ。残りのすべてと、ばらばらの自己を想像することができる仕掛けだ。あなたの一部が、自分はばらばらな個だと考えるのだ。

あなたは個ではないが、総体であるという体験を理解し、楽しむためには、個別化しなければならない。その意味で、エゴをもつことは「良いこと」だ。あなたが試みていることからみて、「良い」のだよ。

だが、あまりにも大きすぎるエゴは、あなたが試みていることから考えると、「良くない」。あなたが試みているのは、ばらばらだという幻想を使って一体である真の自分を体験的に理解し、楽しむことだからね。エゴが肥大して、ばらばらな自己しか見えなくなると、一体となった自己を体験するチャンスが失われ、迷ってしまう。文字どおり、幻想の世界で迷子になり、いつかそこから脱出するか、あるいは誰かが---べつの魂が---引き出してくれるまでは、迷ったままでたくさんの生を重ねなければならない。(引用元:同上)

 

今まで地球は、まさに「エゴが肥大して、ばらばらな自己しか見えなくなり、幻想の世界で迷子になった人間だらけ」の状態が長いこと続いてきたと言えるでしょう。でも、ここにきて、「私たちはみなつながっている。他人に何かをすれば(良いことでも悪いことでも)それが自分にかえってくるのだ」ということに気づき始めた人が増えてきています。

この相対性の世界は実は幻想であり、この領域を利用して、私たちはありとあらゆる体験をし、感情を味わい、完璧な愛になろうとしているのです。

 

魂が追及しているのは---想像しうる限りの最高の愛の感情だ。(中略)最高の感情は「すべてである」存在と合体する経験だ。それは真実へとかえることであり、魂が切望しているその真実が、完璧な愛である。

完璧な愛とは色のなかの完璧な白のようなものだ。多くのひとは白とは色がないことだと考えているが、そうではない。あらゆる色を含んでいるのが白だ。白はあらゆる色が合体したものだ。だから、愛とは感情----憎しみ、怒り、情欲、嫉妬、羨望など----がないことではなく、あらゆる感情の総和だ。あらゆるものの集合、すべてである。

だから魂が完璧な愛を経験するには「人間のあらゆる感情」を経験しなければならない。(サンマーク出版:「神との対話①」より)

 

私たちは長いこと、本当に長いこと、エゴを使って、このあらゆる感情を味わいつくす旅をしてきたんですね。一般にネガティブとされる感情すらも、完璧な愛を知るための大事な経験のひとつだったのです。でも、そろそろ、そのネガティブな感情を手放すときに来ているのかもしれません。嫌というほどネガティブを味わいつくしたら、感謝をもって、解き放しましょう。

「こんな自分が嫌いだから、どっかいって!」ではなく、「もうこの経験は十分感じつくしました。卒業します、ありがとう」といった感じに。

きっと、私たちをサポートしてくれる光の存在が、心の浄化を助けてくれるにちがいありません。

 

旅の道のりは人それぞれ、みんな違います。その人の成長にいちばんぴったりな道をその人自身が選んで歩いているのです。だから、ほかの人の旅に、あれこれ口出ししたり批判するのはやめて、自分自身の旅を喜びあふれた楽しいものにすることに集中しましょう!

 

お読みくださりありがとうございます。

全てに感謝照れドキドキ