ガイアとともに5次元へいこう!!

妄想癖の激しいオバちゃんのスピリチュアル探求エッセイ

”最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間”

私は以前、いつも自分に自信がない、困った完璧主義者だったのですが(今は多少成長して、まあマシになったあせる)その中でも最悪の自己否定は「母親失格」でした。年の近い3人の男の子の育児で、すっかり母としての自信を喪失してしまい、それを回復しようと必死にもがき続け苦しみ続けてきました。私の理想とする母親像というのはまあいわゆる「聖母マリア」的な?(ここからしてハードルが高すぎるわ!)感じで、叱るときは毅然と、でも、子供たちの心に届くよう、「あなたを愛してるよ大事だよ」と、愛をこめて毎日優しく抱きしめる・・・そんなふうに育児がしたかった・・・のにのに。現実はどうでしょう。毎日繰り広げられる果てしない兄弟げんか、家じゅう散らかりまくり、食べ物や飲み物が床に散乱し、障子は桟ごと破壊されびりびりに、ふすまやガラスも壊され、キーキー奇声を発する次男や、泣きわめく三男、変に母親の顔色をうかがうようになってしまった長男、もう何もかもから逃げたくて、でも逃げられなくて、ブチ切れる→泣く(私が、ですよ!)のくり返し。子供たちが可愛く思えない自分に、激しい嫌悪感でいっぱいでした。今思うと、無理もないと思うんですよ、だって男の子3人ですよ、怪獣です、はっきり言って。もちろん怪獣何匹でも余裕をもって愛せる母親もいるとは思いますが、私にはそこまでの度量はなく、完全にキャパを超えてました。当時、「神との対話」は読んでましたが、自分を追い詰めるような捉え方をしてしまっていて、「いま愛ならどうするだろう?」と唱えてみても、とても子供たちを優しく抱きしめる気になれず、「あ~あたしは鬼だよ!悪魔だよっ!愛のかけらも持ち合わせていない最低の人間なんだよ(号泣」と自分を苛めまくってました。

でも、私は、子供たちを愛そう愛そうとする前に、まず自分自身を愛することを学ばなくてはいけなかったのです。「子供を無条件で愛せる→私は素晴らしい母親→私は愛するに値する人間」という図式で自分を愛そうとしてたもんだから、全然うまくいかなかった。子供たちのこと憎たらしいと思っちゃっても、感情に任せて怒ってばっかりでも、「よく頑張ってるよ、偉いよ、立派だよ!」って自分で自分のこともっともっと認めてあげればよかった。(うおっ、入力しながら泣けてきたえーん

自分で自分を痛めつけて、ホントに可哀そうなことをした・・・と当時の自分に申し訳ない気持ちでいっぱいです。自分が余裕がなくて、心も体も悲鳴を上げているのに、それを無理やり押さえつけたり我慢したりして、「母親ならできるはずだ」と根拠のない理屈をこじつけ、子供たちに向き合っても、自分に嘘をついてるんだから、心からの愛情なんて湧いてくるはずがありません。

 

人間関係では、それぞれが他者について心をわずらわせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。(中略)最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。(中略)自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。多くのひとたちは、相手への愛情を通じて自分への愛を求めるという過ちを犯している。(中略)

ひとは、考える----「正しく相手を愛することさえできれば、相手はわたしを愛してくれるだろう。そうしたら、わたしは愛される人間になり、自分を愛することができる」と。(中略)

あなたの最初の関係は、自分自身との関係である。まず自分自身を大切にし、慈しみ、愛することを学ばなければならない。他者の価値を見抜くためには、まず自分に価値を見いださなければならない。他者を祝福すべき者として見るためには、まず自分を祝福すべき者として見なければならない。他者の神聖さを認めるためには、まず自分自身が聖なる存在であることを知らなければならない。(サンマーク出版:「神との対話①」より)

 

まさにこの通りで、自分に価値がない、自分はダメだという思い込みが超激しかった自分は、「正しく子供たちを愛することさえできれば、私は自分を愛することができるのに」という間違った考え方を、長年続けていたってわけなんです。でも、どんなダメ母でも、まず自分を愛するにはどうすればよかったのでしょうか?

 

まず、どう感じているかを自分にも相手にも正直に認めなさい。あなたがたの多くは正直に認めるのを怖がる。そうすると自分が「悪く見える」のではないかと思うからだ。心の底のどこかで、「そんな感じ方をする」のはばかげていると気づいている。そんな自分がちっぽけなのかもしれないと。「自分はもっと大きな人間」のはずだ、と。だが感じるのはどうすることもできない。苦痛を感じないわけにはいかない。できることはひとつしかない。自分の感情を大事にすることだ。自分の感情を尊重するとは、自分自身を尊重することだ。(中略)自分の感情を尊重できないで、どうして相手の感情を理解したり、尊重したりできるだろう?(中略)

いくつかの在り方を試してみなければ、自分が何者か思い出さず、何者になりたいかわからないことは多い。だからこそ、自分の正直な感情を大事にすることが大切なのだ。最初の感情が否定的な感情でも、何度でも必要なだけその感情を味わえば、いつかはそこから踏み出せる。怒りや逆上や嫌悪、憤怒を味わい、「仕返し」したいと思っている者も、いつかは「そんな自分にはなりたくない」と考えて否定的な感情を捨てることができるだろう。(引用元:同上)

 

子供たちには、まあ可哀そうなことをしてしまいましたが、私の成長を促す、という目的も持ったうえで、私の元に生まれてきてくれたのでしょう。私からの愛情が不足した分はダンナがカバーしてくれたと思うので、そのおかげもあって、3人とも歪んだ性格にならずに立派な大人になってくれました。今?そりゃもう、3人とも可愛いですよ、いまなら、心から「愛してるよ~!」と叫んで抱きつくことができますが、向こうが完全拒否ですから笑い泣き

 

自分を大切にし、慈しみ、愛すること。それができて初めて、他者に対しても同じことができうるのだと。なぜなら・・・「私たちは一体」だから。

 

今日はここまで。お読みくださりありがとうございます。

全てに感謝照れドキドキ